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10月

2010

『アメリカ短編小説興亡史 とめどもなくあらわれるアメリカの短編小説をめぐる、めどもなくあられもない断片的詳説』青山南著・筑摩書房

1957年、アメリカの作家・ウォレス・ステグナーは、『偉大なるアメリカ短編小説』の長い序文で短編小説とは「アメリカの発明品」(American invention)であり、1832年1月14日の「サタデイ・クーリエ」にポーが「メッツェンガーシュタイン」を発表したのがその誕生日だ、ときっぱり言い切っている。この125年、英語で発表された短編の作者で偉大なのは、6人の例外をのぞき、皆アメリカ人である、とも。

キプリングやコンラッド、ロレンスやマンスフィールド、そしてジョイスとともに、この偉大な例外にあげられたアイルランドの作家・フランク・オコナーも、1963年、『孤独な声』という短編論の序文に、「短編小説はアメリカの”a national art form”である。」と書いたが、それ以前からアメリカの特産は短編である、という評判はできあがっていた。

 

 

作家であり、批評家であり、何より優れた編集者であったウィリアム・ディーン・ハウエルズは、1890年代にアメリカで短編が栄えた理由を問われ、それは雑誌のおかげだと断じている。雑誌の成功が短編小説の繁栄を生んだ、と。ハウエルズは、1857年にボストンで創刊された由緒のある雑誌「アトランティック」の編集長であり、すぐれた短編をよりすぐって掲載していた。若きマーク・トウェインは、ハウエルズに読んでもらいたくて、何度も原稿を送っており、その情熱が『ミシシッピ川の生活』という一冊の本に結実している。また、あまねく世にしられた『トム・ソーヤの冒険』も、やはり世に出す前に、ハウエルズに送り裁可を仰いだ。

20世紀に入ると、雑誌とともに短編小説は黄金期を迎える。

1910年代、雑誌は最大の娯楽メディアだった。まだ映画もラジオもゆりかごのなかで、雑誌を脅かす存在ではない。この娯楽の王たる、雑誌の最大の目玉が、短編小説だったのだ。

1915年、ヘミングウェイを発見した編集者、エドワード・J・オブライエンが『ザ・ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』を創刊。『O・ヘンリー賞受賞作品集』の刊行が1919年にはじまり、短編を顕彰する権威ある年鑑と賞が相次いで始まっている。

 

 

アメリカの短編を語る上で、切っても切れないのは、F・スコット・フィッツジェラルドである。

1919年、まだ新米だったフィッツジェラルドは「十九本の短編を書き、百二十二回の掲載拒絶の憂き目を見た」。しかし、まもなく売れっ子になるフィッツジェラルドは、1925年『華麗なるギャツビー』で、挫折するまで上り調子だった。

フィッツジェラルドの短編の原稿料は、1925年に2千ドルであり、1929年には4千ドルとはねあがる。一方、血道をそそいで書き上げた長編はわずか7千ドルにしかならず、労力を考えると短編のほうがはるかに換金率がよかった。ただし、作家として大成するためには、優れた長編をかかなければならない。彼には、愛妻ゼルダとの奔放な生活を続けるために、短編を書くしかなかった。商業雑誌が要求してくるようなものでないものを書けば、いいものが書けるとばかりに、「こんなものは誰も読みたがらないだろうと思って書くほかに、まともな短編を書く方法を知りません。」と苦衷をにじませている。

ようやく仕上げた『夜はやさし』を完成させたとき、彼はもうすでに過去の人間になっており、フィッツジェラルドはアルコールを手放せなくなり、『ラスト・タイクーン』のプロットをのこして世をさった。

 

 

フィッツジェラルドが失意に沈んだ1925年は、アメリカの短編小説の象徴ともいえる週刊誌「ニューヨーカー」創刊の年でもある。「ニューヨーカー」には伝説がいくつかあって、サリンジャーが何度も掲載拒否にあったというのは序の口で、ノーベル文学賞を受賞したソール・ベローもノーベル文学賞を受賞した後に! ここに送った原稿をボツにされている。その理由は、結末が葬式で終わるから、である。「死を生々しく描くことの多い」のもダメで、「スポーツ」や「暴力」も望ましくない。「ニューヨーカー」は書き手がどんなに有名だろうと、ボツにするときはボツにするのだ。無論、それだけではない。小説の直し方にも有名なパターンがあった。最後のパラグラフをばっさり切る、というものである。アーウィン・ショーは、「ニューヨーカー」の編集者から学んだのは、そのことだと語っている。

「ニューヨーカー」につとめたこともある、マキナニーは『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』で、ほかならぬ「ニューヨーカー」であろう雑誌の調査課を「ミスなど存在しえないという伝統」とともに描いている。事実を報告する読み物が主で、小説はむしろ従であるにもかかわらず、ブレンダン・ギルの『「ニューヨーカー」物語』によると、どんな有名な作家でも、ここに書きはじめると、書くことがどれほど難しいかを改めて知ることになる、という。

 

「目の前におかれた作品のゲラ刷が鉛筆で書かれた、ニワトリの足跡みたいな無数の質問や提案、訂正で埋まっていると、当の作者が感じるのは創造の栄光ではなく、ブヨの大群に刺し殺されるという脅威かもしれない。すると、彼は考えることもできなくなり、うなだれて涙にくれるしかないだろう。ニワトリの足跡のごときものを始末するために切磋琢磨したおかげで、作品の出来映えはかなりよくなるが、作者のほうは以前にもまして深刻な自己不信の状態に落ちこむのである。」

 

と空恐ろしいことが書いてあるが、これが「ニューヨーカー」なのである。

「見識はある。でも、臆病でもある。」週刊誌。

めまいがするような豪華な作家たちが辛酸をなめてこの門をくぐり、名誉を得ても扱いはかわらない短編小説のレッドカーペット。

 

 

このレッドカーペットの上に、綺羅星のごとくあらわれるアメリカの短編作家を語る上で、欠かせないのは、1939年、アイオワ大学に端を発する創作科の創設である。

毀誉褒貶の激しい学科であるが、レイモンド・カーヴァーの先生でもあった作家、ジョン・ガードナーは、作家になるために創作科の講座には価値があるという。文学の話ができる相手がいない環境よりは、自分の話が通じるところにいるほうが、小説を書きたいと思う気持ちを真剣に持ち続けることができる、という。

ヘミングウェイはかつて、「作家になる最上の方法は、外にとびだしていって、書くことだ」と書いたが、しかし、博覧強記の巨人、ガードナーにいわせると、作家になるためにヘミングウェイがしたことは、偉大な作家たちが集まるパリにいき、作家であり理論家でもあった、ガートルード・スタインに私淑することだった。また、叩上げの天才ともいわれたコンラッドも、ガードナーにいわせると偉大な作家たちとじつに親しく付き合っていたのであり、またメルヴィルにはホーソーンその他の仲間がいた。例外を見つけるのは難しいとまでいっている。

ガードナーは、『小説家になることについて』で、創作科の講座を選ぶさいに、

 

「リトル・マガジンのことを月並みな作品の量産を奨励しているだけだ、と言って馬鹿にする教師には警戒せよ。そういうのはスノッブだから。また、リトル・マガジンを持ち上げて、『エスクァイア』や『ニューヨーカー』や『アトランティック』を毛嫌いする教師にも警戒せよ。そういうのは変装したスノッブだから。」

 

という。

雑誌と作家が手に手をとりあって、レッドカーペットの上で、ワルツを踊るように、鮮やかに現われては舞台袖にきえていく、この二百年にもわたる興亡史を、こんな薄い本で語る、著者の筆力に感服。

安ワイン派や、ラルフ・エリスンの影にかくれた、さらに見えない、ネイティブ・アメリカンの文学には触れられていないが、ポーの短編論、やフォリーの短編の定義、など血湧き肉踊る、めくるめくアメリカ短編文学史。

異常ともいえる、長い注自体が、ひとつの断片的詳説になっており、書いても書いても書き足りないという、著者の狂熱がそこかしこにあらわれている。名著。

 

 

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