木
09
7月
2009
『「世間」論序説 西洋中世の愛と人格』安部謹也著・朝日新聞社
日本の学問には奇妙な特徴があって、それは、日常用語と、学問や論壇における表現の仕方とが、根本的に異なっており、しかもそのことに多くの知識人が目をおおっているという事実である。
たとえば「社会」という言葉を例にすると、義務教育を終えたものであれば、おそらく「社会」という言葉を知らないひとはいない。しかし、この言葉は、専門家や学者、ジャーナリスト、知識人をのぞけば日常用語として使われていない。それにかわるものとして使われている言葉が、『万葉集』や『源氏物語』以来使われている「世間」や「世の中」。
本書の問いかけは、まず、こうした言葉のずれがどうして起こり、そのずれが一体何を生んだのか? を学問的に考証していくことからはじまる。
まず、わが国には「社会」と「世間」というふたつの用語の世界がある。
「社会」は、いわば、近代的な用語の世界であり、貨幣経済を軸とする表向きの構造をもっている。それに対し、「世間」は主として、対人関係の中にあり、そこでは貨幣経済ではなく、贈与・互酬(ごしゅう)の原則が主たる構造をなしている。
どうしてこういうパラレルな世界観が同じような言葉のなかに並存しているのかを考えて見ると、日本人の個人と社会(世間)の有り方が、概念の輸入元である、ヨーロッパのそれとかなり異なっているからである。
欧米における個人のあり方についての例として、少し長いが、カントをひくと、
軍人が上官から命令を受けたばあい、その命令が適切か否かを論議しようとするならば困った事態になるであろう。軍人は上官の命令には従わなければならないからである。しかし彼が軍務を離れて上官の命令の適否を論じ、公衆一般の批判に委ねることを禁ずるのは不当である。軍人が上官の命令に服するのは、彼の理性を私的に使用したばあいであり、上官の命令を批判する自由は、まさに彼の理性の公的な使用によるものだからだ。
日本では、まず間違いなく、この関係は逆転する。
たとえば、会社におきかえてみれば、これは簡単で、内部の不正を公的な場で暴こうとすれば、それには職を賭す覚悟が必要になるのは明白だ。
雑駁ではあるけれど、公と私の関係が、ヨーロッパと日本では逆転している。ではなぜ、この関係が逆転しているのか?
その根源が、日本人の行動の背後にある、聖と俗の関係にある。
西欧は、十二、三世紀を境にして、聖と俗との分離がおこり、自然世界との呪術関係を断ち切ること(たとえば、告解のマニュアルである贖罪規定書によれば、占いをすること、吉日に結婚することなどが罪とされる)によって、西欧における個人は成立している。
他方で、わが国は、聖なるものが世俗社会のなかで、求心的な力をもつことがなかった反面、呪術や迷信のような形で日常生活のあらゆる分野に浸透している。そのため、わたしたちは、鎌倉時代の「参籠起請(さんろうきしょう)」に代表されるような神判とはっきり絶縁していない。わたしたちは、西欧風の個人として生きているつもりになっても、周囲の人々の運命や自然の出来事と無関係には生きられない。建前のときには吉日を選び、結婚式には大安を選ぶ。葬式には友引の日をさけ、親族に死者がでれば賀状をひかえる。
わが国においては、個人の責任が個人でおわらず、同じ世間につらなるほかの人々や、他のモノと不可分の関係におかれている。こうした古代以来のケガレの意識が、形をかえながら、今日まで生き残っている「世間」を呪術的なものがいきる世界観としてとらえ、社会を合理的なものとしてとらえることで、人間関係の基本線を明確にしている。
これで序論というのがすごい。
あまりに面白かったので、他の著作をまとめて買う。
