『浮き世のことは笑うよりほかなし』山本夏彦・講談社

かつて『室内』というインテリアの月刊誌がありました。

コラムニストの故・山本夏彦が創刊した雑誌で、大工や建具、家具職人にはじまり、木工からインテリア、プロダクトデザイン、果ては建築にいたるまで、幅広く時代を追い続け、伝えた数少ない専門誌です。休刊までの52年の足跡はそのまま戦後インテリアの歴史といっても過言ではありません。
本書は、『室内』の名物連載「人物登場」に、しゃべるの大好き! 山本夏彦が、珍しく(大体は編集部が聞き手をつとめておりました)聞き手をつとめて、大好きな人としゃべりつくした対談集です。『北大路魯山人』や『千代鶴是秀』(名作ですが絶版!)の著書で知られる白崎秀雄にはじまり、清水幾太郎、向田邦子、建築家の石山修武に安藤忠雄、『東京(ケイ)時代』の小木新造に安部譲二など、錚錚たる顔ぶれ。
溝口健二監督の「元禄忠臣蔵」の殿中の松の廊下のセットをつくる話や明治時代の寺子屋、「シカト」の語源など、ここでしか読めない話がぎっしりと詰まっています。是非、ご一読あれ!

『あと千回の晩飯』山田風太郎著・朝日文庫

七十二歳になった、山田風太郎が、漠然と、あと晩飯を食うのも千回くらいだろうとの思いから、かきはじめたエッセイ集。

人間の定年は、65歳だとして、その年齢に達した死の希望者は、国立往生院とでも呼ぶべき施設に入れて、荘厳なセレモニーのうちに安楽死させてはどうかと書いてみたり、古今亭志ん生、志賀直哉、武者小路実篤のことばを引用して、死に様をユーモアたっぷりに描いて見たり、鴎外の『雁』を「サバのミソ煮のためにヒロインの恋がむなしくなるという話」ときってすてたり、「終日座睡的な日常」にありながら、それでもときどき目をあけて日本の行く末を心配したり、地球の滅亡する日を空想して本気で心配したりするのが可笑しい。

ひょっとして、ぼけてるんじゃないかと思わせながら、

 

「(略)白内障も悪いことばかりではない。眼は、風景を見るにはよく見えるほうがいいが、人類を見るには、少しかすんでいたほうがいい」

 

など、いきなり、はっとさせられる。

鯛焼きみたいに頭から尻尾の先までおいしい一冊。

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠著・岩波新書

日本国民には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が、憲法25条で定められている。これは、単なるお題目ではなくて、これに基づいてつくられた生活保護法があり、世帯ごとに10円単位で最低生活費が決められている。つまり、この金額を下回ったら、国が責任を持ちますよ、という金額が。

この最低生活費を具体的に知っている人がどれだけいるか?

この「見えにくさ」こそが、日本の貧困問題の位置づけを反映している、と著者はいう。

貧困問題は、自己責任論で片付けられやすい。

たとえば、「フリーター」。

 

1 フリーターにはちゃんとした正社員になるという選択肢があった

2 フリーターはあえてそれを選択しなかった

3 本人が弱くてだらしなくて、きちんとした将来設計ができていない

4 つまり、それは本人の責任である

 

この論理は、「ネットカフェ難民」にも当然適用できる、

 

1 ネットカフェで暮す前に、他にアパートを維持する選択肢があったはずだ

2 なのに、それを選択しなかった

3 本人が弱くてだらしなくて、安易にネットカフェに流れた

4 それは本人の責任である

 

というように、である。

この一部の隙もないように見える自己責任論には、決定的な穴がある。それは、「他の選択肢を選べた」という前提である。

格差と貧困の本場、で貧困問題について言及する、デヴィッド・K・シプラーは、貧困状態で生きていくことを、

 

「ヘルメットもパッドも着けず、練習もせず、経験もないまま、体重100ポンド(約45キロ)のひ弱なアメフト選手たちの戦列の後方で、クオーターバックをやろうとするようなものである」

 

という。

無防備さと、逃げ回るしかない選択肢のなさは、まさに貧困のありようを語っている。

湯浅誠の象徴的な概念のひとつに「溜め」がある。溜池の「溜め」で、外界からの衝撃を吸収してくれる緩衝材の役割のことをいう。たとえば、お金や、人間関係、精神的な余裕である。貧困とは、この「溜め」を失った、または奪われた状態のことである。職業や雇用条件を選んでいる暇はない。選択肢などないのだ。

社会的には、三層の、雇用、社会保険、公的扶助のセーフティネットがある。これが適用されるのは、基本的には貧困とはかかわりのないポジションにいる人々ばかりなのだけれど、このセーフティネットから排除され、家族からも排除されてしまうと、最後の砦である自信や自尊心をうしなうことになる。

この貧困状態に至る背景には、「五重の排除」があるという。

 

1 教育課程からの排除(この背後には親世代の貧困がある)

2 企業福祉(雇用)からの排除

3 家族福祉(親、兄弟、子供など)からの排除

4 公的福祉(追い返す技法が洗練されてしまった生活保護行政)からの排除

5 自分自身からの排除

 

第1から4までの排除を受け、しかもそれが自己責任論によって、「あなたのせい」で片付けられ、さらに自分自身がそれを内面化し、「自分のせい」と捉えてしまうと、そこには「死ねないから生きているにすぎない」という暗澹たる虚無しかない。

 

ここで捉え方をかえてみよう。

まず、貧困とは自己責任ではない、と。

「効率的なもの」が勝利する社会は、必ずしも自由な競争を実現してはいない。というのも、その効率とは少なからぬ場合、親の世代の資本投下によって生み出されているからだ。多くの資本投下をされたものが、望ましい効率性を見にまとい、市場で生き残り、そこで蓄積された富が次の効率性を産み、その結果、生まれたときからスタートラインが違うという「機会不平等」が存在し、それに目をつぶったままの自己責任論が跋扈する。

セーフティネットの崩壊による、うっかり足を滑らせたら、どこにも引っかかることなく、最後まで滑り落ちてしまう「すべり台社会」化。生活保障なき、自立支援がそれに追い討ちをかけ、社会全体の「底辺に向かう競争」が繰り広げられている。

貧困は社会を脆弱にするだけではない。貧困は戦争に対する免疫力を低下させる。アメリカでは、軍隊が特に、貧困層の若者をターゲットに勧誘を強化している。まともに食べていけない閉塞した状況に追い込み、他の選択肢を奪ってしまえば、若者は志願して入隊する。食べるために。

こうした状況は日本でもはじまっており、つい数日前の朝日新聞で、自衛隊があふれている、との記事が掲載されていた。

当然ながら、人は野宿にならないようにあがく。それでもどうにもならなかったとき、つまり自殺しなかったとき、人は路上にでる。

 

「捨てられた物を食べたとき、何かを失ったと感じた」(朝日新聞09・6・27)。

 

いきなり、隣人愛に芽生える人は危険物に違いないのだと思うのだけれど、僕には、この言葉が他人事のようには聞こえない。

寄付をするつもりもないし、見ず知らずの他人を助けるつもりは毛頭ないが、少なくとも、身近な人が困っているときに手を差し伸べる余裕はある、と思う。

『特別法第001条 DUST』山田悠介著・文芸社

二〇三二年の日本を描いた、戦うニートの物語。

「タカ派でならした小泉政権交代からニ六年」後の東京都新宿には、「球体型や、スプーンのような形をした奇抜なオフィス」がたちならんでおり、道路には、カプセル型の水素自動車が走っている。全てコンピュータが運転しているため、事故は起きないらしい。

携帯電話は、見違えるほどコンパクトになって、小型のチップを耳にいれ、ライターほどのリモコンをもつだけ。お金は、紙幣から、カードにかわり、街中に監視カメラがあふれている。

未来の世界を描くためには、それらしい荒廃や進歩を書く必要があるが、その点で、この小説は失敗している(現金で買えないという設定にもかかわらず、コンビニで一万円を使ったりしている。他にもあるが、ここでは書かない)。ただし、ディテイルが破綻していたとしても、それだけで小説のよしあしが決まるわけではない。

本書の題は、高齢化社会で労働力不足が深刻化する中、その上京を打開するために、日本国政府が打ち出した法案の名前、である。それが、棄民政策、で、一八歳以上の未就労、未納税者を流刑にし、500日間を無人島で暮さなければならない。無人島には、電気、ガス、水道、食糧はなく、棄民には、不要な人間が自然に死ぬのを待つ、という極めて残酷な死刑が待っているのだ。この特別法第○○一条、通称”ダスト”法には、当然抜け穴があって、免罪金を払えば、免れることができる。つまり、この法令が対象にしているのは、ニートとか、働きたくても働けない、そして、それをたすける人間のいない、孤独な人間なのである。

ゴミを棄てるように、無人島に投げ込まれた主人公たちは、にわかバトルロワイヤル的な境遇を生き延びる方法を模索し、他人の善意を喰い、略奪し、食べるものが尽きると、皆、死んだ人間を競って喰い始める。

刑期を終えて無人島からなんとか生き延びても、それで終りではない。工場で死ぬまで、部品として働き続けなければならないのだ。この淡々とした監獄は、多分、著者の実感ではあるまいか。

山田悠介の魅力は、描写力とか、設定とか、プロットではなく、単純に発想、この一語に尽きる気がする。

 

考えるところがあって、ニートものと呼んでいいのかどうかはわからないが、を集めて読んでいる。本書の広告を新聞で読んだときは冷や汗を書いたが、やはり考えることは皆微妙に違うようで、面白い。

 

『ハイスクール1968』四方田犬彦著・新潮社

四方田剛己が評論家・四方田犬彦になる過程を、1968年という時代を通じて描いたオートフィクション。

ウィキペディアが好んで、拾いそうな、筆名の由来、

 

「わたしは自分の感想を八百字ほどの文章に纏めると、あるファン雑誌に投稿した。このとき筆名を気取って「丈彦」としたつもりが、誤植で「犬彦」と打たれてしまったのが、今日にまで続くわたしの筆名の由来である(41頁)」

 

が書いてあるが、ウィキには、

 

「本来は「四方田 丈彦」との筆名を用いるつもりだったが、出版社に「四方田 "犬"彦」と誤植され、そのまま筆名にしたという説があるが、『待つことの悦び』(青玄社、1992年)所収「ぼくの本当の名前」ではこの説は間違いであると述べ、カール・パーキンスの「マッチボックス」の一節"I'll be a little dog till your big dog comes"に由来すると説明している。」2009年7月19日現在

 

とあり、既に著者自身、筆名の由来がわからなくなってしまっている模様。

この当時の体験談は、矢作俊彦を筆頭に、当時の同級生であった舞踊研究家、翻訳家の鈴木晶からは「四方田が大法螺吹きであることは、業界では知らぬ者はない。私も慣れている」「同級生に取材して書いたにもかかわらず、その同級生たちのことをわるく書き、自分だけは憂いを帯びた哲学的な高校生として描いている」「小説なら許せるが、あたかも実録のように書いているから、たちがわるい。ほとんど嘘なのに。しかし、もし小説家だったら、自分がいかにカッコイイ高校生だったかを世間にアピールしたくて、こんなものを書いたりはしない。そんな小説家は見たことがない。こういうものを書く神経が、私には理解できない」と猛烈に批判されている。

しかしながら、オートフィクションとして読めば、四方田犬彦の切れ味は抜群で、この時代に難解とされた芸術、すなわち、フェリーニの『8 1/2』、コルトレンのジャズ、谷川雁の現代詩、土方巽の暗黒舞踏などを一挙に読み解いて、

 

「コルトレンの長々としたソロの理念は、60年代に端を発した北インド音楽の全世界的流行と無関係ではないし、フェリーニによる物語の解体はバフチンが理論化した多元論理的なテクスト構造にみごとに照応している。谷川雁の詩は、たとえばエドマンド・ウィルソンが『フィンランド駅へ』で活写したマルクス主義とロマン派的主張の関係を知ってしまうと、お茶碗のなかの嵐といった印象を否めないし、土方巽の舞踊のグロテスクはブニュエルの『ビリディアナ』に登場する、花嫁衣装を着た乞食の舞から直接に霊感を受けたものだと判明すると、ただちに興ざめがしてしまう。こうした現象は、それらの芸術作品が前後の美学的文脈のなかで充分に相対化され、すでに歴史的役割を終えたことを、如実に物語っている。」

 

など、博覧強記の知識を浴びるように楽しむことができる。

『お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術』横田睦著・平凡社新書=○

だしぬけですが、骨壷におさめなかった骨はどこに行くのか、気になりませんか? 焼き場で箸わたしをしていたときには、そういうことを考える気分じゃなかったのですが、よくよく考えてみると、やはり気になる。
糸魚川・静岡構造線を境界にして、東側、つまり東日本ではほとんどの焼骨を骨壷におさめてしまいますが、西日本では、俗に「喉仏」といい、第二頚椎などのごく一部しか拾いません。
自分の出身は関西なので、なんの疑いもなしに、延延と喉仏その他を拾い続けてきたわけですが、関東にきて、箸わたしをするようになって、案外その時間がながくて、不思議に思いました。そこで、はたと東と西の違いに思い至り、じゃ、関西の、あの拾わなかった骨たちはどこに行くのか、という疑問がふつふつと湧いてきました。
しかしながら、読書の常として、そうした疑問にこたえてくれる本というのは滅多にありません。
本書も例外にあらず、その問題に触れてくれてはいますが、肝心なところはモザイックがかけられており、認識ができない。
なぜぼかすのか。
社会人を何年かやっていると、そうした背景がある程度つかめるようになって参りました。その答えは、二つ。
人に迷惑がかかる。
知らないほうがよいこともある。でしょう。
PTAしかり、あらぬ方面からのクレームには用心にこしたことはありません。
それをのぞけば、骨太の火葬文化史として秀逸にまとめられています。勉強になりました。

 

『他諺の空似 ことわざ人類学』米原万里著・光文社

たとえば、やぶ蛇(藪をつついて蛇を出す)という言葉がある。余計なことをして、無用の災難をかぶることで、これは日本だけの考えではない、らしい。というのも、

 

去っていく虎に小石を投げる→インド

喧嘩の仲裁をして殴られる→アラブ

ハイエナの相撲を羊は見に行かない→セネガル

寝ている犬はそのままにしておけ→イギリス

 

……などなど、いちいち書き写すのにあきれるぐらい、この後も、世界五大陸に渡る類諺が延々紹介されていく。つまり、人間の営為(ふふふ)というのは、実は人種をこえており、世界はことわざで連帯している。馬鹿げた言葉を使いましたが、本書は、ときに辛辣な人間の人間に対する視線をユーモアあふれる筆致で描いている。

しかしながら、余程、現代社会に腹を据えかねたのか、連載の趣旨から、毎度のごとくに脱線して、小泉・元総理とブッシュ・ジュニアへの熱いエールを忘れない。少し長くなるが、

「二○代と三○代に飲酒運転で逮捕歴があり(妻のローラも十七歳のとき飲酒運転で級友をひき殺している)、名門エール大には金と権力を持つパパの力で潜り込み、勉強せずに遊び惚けていてコカイン吸引で有罪判決を受けたというどら息子。(中略)テキサス州知事になってからも、知事としての実務に無関心で、製作の勉強は嫌いだと公言し、「これほどまでに政策や国家運営の業務にうとい人物が、州知事はもとより、なぜ、よりによって大統領の座に就きたいと思っているのか」と周囲に不思議がられている。「なぜ読み書きしゃべる能力が小学生レベルの、知性も才能も勤勉も努力も欠如した男を」と。」

と手厳しい。

諺よりも、気炎をあげている。

たしかにブッシュ・元大統領には失言が多く(以下『フー・アー・ユー?』扶桑社より)、そんじょそこらのコメディアンでは歯が立たない。

(イラクに対して)「あいつらが武装解除しないなら、我々のほうが武装解除する!」や、(ブラジル大統領に)「ブラジルにも黒人がいるのですか?」などときいてみたり、「私の弟であるジェブは、偉大なるテキサス州知事なんです」と間違えてみせたりする(当時はフロリダ州知事)。

極めつけは、「私の知能が足りないと思っている人間は、その事実を甘くみている」で、2003年には、テレビでイラクのフセイン大統領に最後通告を行ったあと、お菓子のプレレッツェルを喉につまらせて気絶したりと、目が離せない。

しかしながら、この話が笑い話で終わらないのは、巻頭に登場する森・元総理の名言で、初めて会ったクリントン大統領にむかって、「ハウ・アー・ユー」と間違えて「フー・アー・ユー?」と言う。

しかし、哀しいかな。

クリントン大統領が、機転をきかして、「ヒラリーの夫です」と答えて、笑いでフォローしたにもかかわらず、「ミー・トゥー」と答えて、まわりを凍りつかせたとか。

目糞鼻くそを笑うじゃないけれど、他山の石とは思えない、言葉の話。

米原万里には、エッセイだけではなくて、もっと小説を書いて欲しかったけれど、2006年5月25日、がんのため鎌倉の自宅にて死去。

戒名は「浄慈院露香妙薫大姉」。

本書は遺作。

絶筆はいつかまた別の機会に。

『自分の頭と身体で考える』養老孟司+甲野善紀著・PHP文庫

甲野善紀の本を読んでみたくなって、目についた本を一冊買う。

対談集の弱点は、内容ではなくて、まず話し方、スタイルで読まれてしまうところにある。実際に相当大変な境地に立たされているのであろうけれども、甲野はそのことを理解していないのか、常に他者、旧弊を批判しているだけで、読んでいて面白みなし。

面白いのは、養老孟司で、これは意表をつかれた。学生のころに『唯脳論』まで読み継ぎ、もう卒業かしら、と思って以降の著作は一切手を触れずに来ただけに、新鮮。事象の読み方、切り取り方が、独特なのか。

たとえば、自分でテレビゲームをやってみて、

 

「テレビゲームというと子どもの遊びと思う人も多いかもしれませんけれど、やってみて分かったのは、人の人生ってせいぜいテレビゲーム程度の複雑さだったんだなということですね。あれだけゲームに夢中になってのめり込めるということは、現実は確かにゲームより複雑かもしれないけれど、その複雑さをこちらはゲームと同程度にまで単純化して受け止めてるということなんでしょう」

 

ゲームはやらないけれども、かねてから、ゲームにのめり込んでしまうのは、何故かということを勝手に考えていたことがありました。

不思議じゃないですか? 

あんな単純なことを延々やっていて飽きないというのは。それどころか、日常生活を侵食して、廃人化し、韓国では社会問題にすらなっている。韓国はオンラインゲームですけれど、そんな面白いものだったら、何が面白いのか、その部分を抽出したいというか、理解したい。

柴田さんとも、なんなんでしょうね、みたいな話をしたことがあるのですが、まさか養老孟司に教えられるとは。

都市を歩けば、

 

「街というのは、人間の作ったものしかないから、何か悪いことが起こると、それは全て人間のせいなんです。(中略)マレーシアへ行って、トラに頭かじられたって、誰にも文句は言えない。(中略)でも、都会で、穴に落っこちたり、トラにかじられたら、すぐに分かるじゃないですか、「このトラは誰の飼っていたトラだ、誰が放した」って、管理責任になる」

 

と。

また、学歴の意味を考えて、

 

「僕は学校を卒業してないんだな、結局」ってある時、気づいたんです。学歴というのは、要するに卒業しないからあるんです。いったん入ったら、僕は死ぬまで「東大卒」です。もうそれを絶対に忘れてもらえない。(中略)いつも「何であんなに楽に卒業できたんだろう」って思っていたのですが、「なるほど、ずっと卒業していないんだから、楽だったんだ」と納得しました。(中略)いつまで経っても学歴が残っているということは、未だに東京大学を卒業していないということなんですよ。それが学歴の意味ですよ。それが共同体なんです。「俺は何とか会に属している」というヤクザと同じで、暗黙のうちにそこに属しているんです」

 

永遠に卒業できないなんて、ちょっとしたホラーみたいなことを言っているけれども、まったくその通りという気がする。

こういう視線を投げかける人を他に、ちょっと思いつかない。

本屋で買ったことのない著作をざっと買う。

『身体の文学史』養老猛司著・新潮文庫

本書は、解剖学的手法を用いた文学史、すなわち、文学史の解剖学である。

身体(内的自然)と、いわゆる自然(外的自然)を、分離するのは、養老猛司の用語でいえば、脳化社会で、ふつうの表現にかえれば、文明社会の意識であろうか。

身体と自然の「切断」に、文学者は敏感に違いないという、素朴な思い込みからはじまった試みは、いわゆるポルノ裁判や、文学の主題としての生老病死、伝統としての花鳥風月、芥川龍之介、志賀直哉などの作家らを検討していくにつれ、その視線が基本的には社会に向いていて、文学者が典型的な脳化社会のひとであることを浮き彫りにしていく。

考えて見れば、文筆でいきる、それが可能であること自体が、社会、すなわち脳化を前提としいるのだから当然といえば当然で、身体という自然は、したがって常に文学の辺縁に位置しており、図らずも、自然(外的自然)が物理的に社会の辺縁に位置するのと相似している。

こうした文学の辺縁を対象にした作家として、深沢七郎ときだみのるがとりあげられている。

養老猛司の意見によれば、「深沢七郎の主題は人間の自然、生老病死だった。作者にその意識があったかどうか、それはわからない。あってもなくても、かれは生老病死を描いたのである」という。個人的にはこういう切り取り方に異議を呈したい(というのも具体例のしっかりしている養老にしては珍しく曖昧で、ここでいう「人間の自然」とは何なのか? とか、生老病死について書いていない作家のほうが少なくないか? とか、「人間」を描かない文学(「未来派」のこと?)のほうが辺縁では? とか、切り取り方が甘い気がする)。

ただ、「脳化社会から一歩外れた著者の感性」であり、それは「ほとんど中世的と呼んでもいいもの」という指摘は、よく解る。不気味なのである。深沢七郎の文学は。

深沢が、その文学を、自然、あるいは身体(内的自然)の内部から書き綴ったのに対し、きだはそれを外部から見た。深沢は、『笛吹川』や『甲州子守唄』のように、部落を過去にむかってさかのったのに対して、きだは現在のみをきりとる。その意味で、きだの視線は深部までは届かないが、個人的に思い入れの深い作家が、自然と文学という視点で新たに語られているのが嬉しい。

深沢と並び、きだの『気違い部落周遊紀行』は、学生時代のバイブルの一冊でした。

『スルメを見てイカがわかるか!』養老猛司・茂木健一郎・角川oneテーマ21

「「私」という世界でたった一つの存在は、脳によって生み出されている。「私」がどのようなことを思い、考え、感じるかは、大きさが一リットルほどの脳という臓器によって決まっている。」(茂木健一郎)

 

脳の持つ潜在能力は、いまだ解き明かされるのことのない深海の世界と同様に、眠っている。たとえば、オーストラリアのアラン・スナイダーやアメリカの神経学者・オリヴァー・サックスがつまびらかにしているように、「サヴァン能力」といわれる、脳のメカニズムがある。マッチ棒をバラッとまいたら、一瞬でそこに何本あるか分かってしまったり、一度だけしかみたことのない風景を寸分たがわず描写できてしまう、自閉症の一部のサヴァンと呼ばれる人たちが特定の領域で天才的な能力をしめすことで、アラン・スナイダーは、その研究において、ひとつの結論をだしている。それは、サヴァンたちが示すような能力はノーマルな人の脳の中にも潜在的にあるのだが、なんらかの理由でその能力が抑えられているのだと。つまり、新しい能力が付け加えられているのではなくて、抑制がとれて表面に出てきているのだというのである。

脳の世界の魅力を、世に解き放った二人の著者の対談の割りに、ボリューム感がないのが残念ではあるけれども、脳の肥大化、身体をこえた、たとえば自分の所有物、にまで自分の範囲というものが広がっていることを、自分の車が他人にけられれば頭にきたりすることを例示して指摘したり、嘘をつくのは自然と形式の関係において発生する、などの養老節は健在。

著書の題は、養老猛司が、長年解剖をやりつづけてきたときに、言われつづけてきた言葉「あんた、人間加工して、人間のことを研究してるっていってるけど、それはスルメからイカを考えてんじゃないの」から。

ここでいう、イカというのは生きている対象物で、スルメとは止まっている(あるいは死んでいる)対象物の比喩。大学にいくと馬鹿になる、という世間の常識が、つまり、スルメ、止まっている現象の研究に向かっていて、生きている現象に直面していないことを指摘している。

ところで、近所のスーパーにおいてある「生スルメイカ」とはなんなんだろう。

見た目はまさに刺身……。

『百万人のお尻学』山田五郎著・講談社

お尻が好きな人にはたまらない一冊。

ふざけたタイトルだと思っていたけれども、中身は至って真面目。タモリの特別寄稿「お尻の思い出」にはじまり、医者が書いた「お尻の医学」など緻密なデータに基づいた、骨盤の形とお尻の輪郭の関係などの論考を併録している。ばかばかしいことを本気でやっているのが嬉しい。

山田五郎という人は、トリビアルなことを面白がっている人のイメージが強かったが、そのトリビアルな知識が、「お尻」という切り口を与えられることで、目が覚めるような切れ味をもって、目の前に迫ってくる。

例えば、第三章の「お尻のファッション史」では、お尻がそもそもは男のセックス・シンボルであったことを文献からつまびらかにし、女性のエロティシズムが「胸と腰」から「お尻と脚」に変容してきた過程を、ファッション史のなかで論じて見せる。おそらく、こんなことは山田五郎以外の誰にもできない。まさに圧巻。名著だと思います。

『エノケン・ロッパの時代』矢野誠一著・岩波新書

ロッパの悲食記があまりに面白かったので、気をよくして本棚のなかに放りこんでいた本を引っ張り出してよむ。

タイトルにあるように、彼等が活躍した時代を描いていて、エノケン・ロッパについては、それほど詳述していない。

和製エディ・キャンターとうたわれ、「走行する車の右のドアからとびおりて、車のうしろをまわりこみ左のドアからとび乗って見せた」という伝説の持ち主、エノケン。男爵家のうまれで、声帯模写のパイオニアとして「笑いの王国」を率いたロッパ。

エノケンの同伴者として戦中までともに走りつづけた座付作者、菊谷栄。サトウ・ハチローの弟子にして、ロッパの懐刀になった菊田一夫。忘れられた奇人、中山呑海。この時代の浅草をみるには、やはり、省エネせず、『古川ロッパ昭和日記』(全四巻)に手を出さなければ駄目か。とにかく、もっと知りたい。

『嫉妬の世界史』山内昌之著・新潮新書

この本の魅力を勝手に、一言でいうならば、それは視点の面白さだと思う。

その理由は、日本の社会では、すぐに圭角や感情を表に出す人物は絶対に出世できないから、である。言葉は悪いけれど、茫洋というのか、兎と亀ではないけれども、のらくらしている人が最後に笑っている場合が多い。日本の社会、というかシステムは、嫉妬と非常に密接な関係にある、のである。

日本史が好きな人なら、見逃せないのが石原莞爾と東条英機であり、島津久光と西郷隆盛。近代文学ファンなら見逃せないのが、世俗を超脱した境地に達したと思われがちな森鴎外の妄執。

ギリシアから中国まで、ねたみとそねみが歴史をかえてきたことを網羅している。一読、巻を措く能わず。

非常に爽快な読み応え。

『弥勒戦争』山田正紀著・ハヤカワ文庫

『神狩り』で日本のSF界に颯爽とあらわれた山田正紀の第二作目。ずっと読もうと思ったままになっていたのを棚から引っ張り出してむさぼるように読む。初期山田正紀の作品の特徴として挙げられるのは、科学ではなく、哲学を物語の中に組み込むことである。

『神狩り』の冒頭シーンは、ヴィトゲンシュタインの薊(アザミ)からはじまり、抽象的な存在である神に、論理という物語の枠をあたえて、つかまえようとする。その緊迫した試みが、最後の最後まで続き、頁をたぐる手を休ませない。

『弥勒戦争』もそうした構造をそのまま受け継いでおり、大乗仏教と小乗仏教の倒錯した関係を在日と日本人、米国人と日本人という関係にあてはめながら、弥勒という一方からみれば救済者であり、もう一方からみれば大量殺戮者という存在に光をあてていく。

非常に残念なのは、この小説がここで力尽きていることである。ものすごく面白くなりそうなのに、というところで、筆をおいている。つまらなくはないのだけれど、『神狩り』を知っているだけに、おしい。

 

個人的にたのしかったのは、半村良が解説を、読んでいて表情がわかるぐらいに、とても嬉しそうに書いていることである。

半村は、山田正紀を当初、弟子にする心づもりだったらしいのだが、あまりに山田正紀が面倒くさがったため、ついに愛弟子になること(されること)はなかったが、半村は、山田正紀の才能を終生愛することはやめなかった。この解説は、まさに二人の蜜月時の言葉。

『脱・排除社会 人が人らしく生きられる社会にするために』湯浅誠・関根秀一郎著・サンガ新書

北九州で餓死事件があった。持病があって働けず、生活保護を打ち切られて、挙句、「オニギリ食いたい」と書き残して餓死した。戦前の話ではなくて、数年前の話である。この事件は、憲法25条、すなわち「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に抵触している。

日本の行政が、排除社会化しているのは誰の目にも明らかである。その排除社会化と最前線で戦い続けているのが、本書の二人、気鋭の論客、湯浅誠と関根秀一郎である。この二人の認知度は、年越し派遣村を通じて、爆発的に広まった。

貧困、すなわち非正規雇用の問題は、自己責任論にいきつくことが多い。つまり、頑張らなかったから、あんたは就職できないんだ、の類。しかしながら、この問いの立て方は、考えるまでもなく不毛で、本質を看過し、本人の中に問いを封じ込めている。人に注目する問いの立て方であって、頑張れなかった理由はいくらでもあとづけできてしまうという、極めて暴力的な論理である。

非正規雇用化が拡大している端的な理由は、正規雇用の数が減少しているだけの話で、要するに単なる椅子とりゲームなのである。10人いて椅子が7つしかなければ、7人しか坐れないのは、誰の目にも明らかである。一つの椅子に仲良く二人で坐ろうというのをワークシェアリングという。

非正規雇用の問題は、こうした本質的な問題が俎上にあげられていないことだと、二人は指摘している。今、目の前にある問題である。

『千々にくだけて』リービ英雄著・講談社

東京からワシントンまで、直行便で12時間かかる。

半日の禁煙。

喫煙者にとって、考えるだに恐ろしい直行便である。チェーン・スモーカーのエドワードは、迷うことなく、途中、ラウンジでタバコをすえる、西海岸を経由する便に決めた。6時間近く、乗客の蔑視をあびながら、噛みタバコをにおいだり、かみつづけていたエドワードが、カナダに着陸して、さあ、ようやくタバコをすえるぞと思いきや、機内の機長のアナウンスが流れる。

 

the United States has been victim of a major terrorist attack

(アメリカ合衆国は甚大なテロ攻撃の被害者となった)

 

だしぬけに、カナダに足止めされた六日間の五千分の一の記録、が本書である。

うがった見方をすると、西洋出身者で初の日本文学作家であるリービ英雄が、9・11のテロ事件を小説にする、というのは、もうその企画だけで「商品」になっていると思う。

問題は何を書くか、であるが、退屈をもてあましたエドワードは、エロ本を買って、いきなりオナニーしはじめる。話柄が下がって恐縮ですが、しかし驚ろいた。

『リヒテンベルク先生の控え帖』池内紀・編訳・平凡社
ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは十八世紀のドイツの人。1742年に生まれ、自分の世紀を見届けるように、1799年に世を去った。実験物理学の分野に「リヒテンブルク図形」というものがある。電気を記録した実験成果で、これを応用して、ゲッティンゲンの街に避雷針をたてた。
33歳で母校のゲッティンゲン大学の教授になり、数学と実験物理学をおしえた。45歳で宮中顧問官の称号を授与され、イギリスの王立科学協会やペテルブルク科学アカデミーの会員をつとめた。ゲーテは『色彩論』をまとめるにあたり、教授をこうた。彼は当時のドイツで最良の物理学者として知られていた。
うまれつき、背中がまがっていたが、肉体的ハンディをものともせず、いつも明朗闊達で、

「この世にある平面のうちでもっとも娯楽性に富むのは、人間の顔である。」
「町の大時計は、またしてもリューマチの発作をおこしている。」
「人間にとって天国ほど手のかからない発明品はなかっただろう。」
「山羊が馬小屋にいる、ちょうどそのように、彼は社交界で大目に見られていた。」

といった具合の軽口を好んだ。ゴータ宮廷暦という古代ギリシアやローマについて啓蒙するカレンダーに解説を頼まれると、たとえば、「処女性」をあらわす、「ダイアナ」にそえて二行。

「いかにも処女が守れるだろう
 帯が二重で、とんだ馬鹿づら」

結局、この年のカレンダーは陽の目をみなかった。
ひとことでいえば、古い大学町の名物教授といった人で、時代とともに忘れ去られるはずだったが、彼は人知れず、2000頁にわたる15冊のノートを残していた。
ゲッティンゲンの学生時代にはじまり、死の数日前まで書き続けられた35年の記録。本書は、その小型の模型とでもいうべき、アフォリズム集。よっぽど知識人と読書家に悩まされることが多かったのか、本について書かれたものが多い。

「提案--寒い冬には本を燃やそう。」
「人間の理性が、ごく近年にやってのけた最大の発見は、私見によると、一行も読まずに、その本の判定法を見つけたことである。」
「有名人の著書の場合、書きとめられたことよりも消し去られたものを読みたい。」
「たいていの読書家は、考えずにすむように、そのためせっせと読書に励む。」
「たくさんの本を読むと、しでかした馬鹿をさえ上手に話せるようになる。」
「書物は鏡である。いくらのぞきこんでも、猿は猿。」
「書評は、生まれたての本が多かれ少なかれ体験する幼児病の一種である。この病いによって健康児が死んだケースもあれば、虚弱児が生きのびたりもする。まるで患わない子も多い。序文や献辞のお守りで予防したり、みずからの判断を示して予防接種をする人もいるが、必ずしも効能があるとはかぎらない。」

言語哲学者ウィトゲンシュタインは『アフォリズム』をなかんずく愛読し、ニーチェにとって、ゲーテを除き、これほど、「再読、三読に値する人」はいなかった。

「処刑前に贈られた一時間は、一生涯に価する。」
「墓場ではじめて同じベッドにつくのを悲恋という。」
「海が塩っぽいように、あんなふうに大気は電気を含んでいるのだろうか?」
「人間はカタツムリのように、住居によって分類する。」

ドイツで最良の散文家の一人。

「夢の中で自分自身を見るのは、鏡の視覚のせいであって、そこで自分は鏡の中にいるとは思わない。夢の中では想像がはるかに活発で、意識と思考は少ないものだ。」

フロイトよりも一世紀早く、夢の重要性に気づいており、詳細な夢の記録と知見を残した。

映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』若松孝二監督

冒頭、だしぬけに自分の母校が登場して驚く。連合赤軍の創立メンバー・重信房子らが、大学の学費賃上げ阻止運動をきっかけに、赤軍派に身を投じる、すべてのはじまりの場面なのだが、この歴史的一こまに個人的な恨みがないわけでもない。というのも、自分が通っていた大学は、日本で唯一生協が破産した大学であり、それがどうやら、彼等の活動と関係がないわけではないからだ。四万円近く支払った生協加入金が、500円の図書券に化けてしまった。

 

連合赤軍という言葉からイメージできるのは、カップラーメンとナラコム(京橋の警察博物館?においてあった8穴のシステム手帳)、よど号ハイジャック、レバノン、足立正夫、藤原カムイの『アンラッキーヤングメン』、山本直樹の『レッド』、漫画『革命クラブ』のほかは、笑えない喜劇みたいな映画数本ぐらい。もともと政治に対する興味が極端に薄いせいもあってか、何の実感も認識もない。

連合赤軍という言葉は、よく聞く割に、よくわからない。映画をみて、わかったのは、当事者である彼らにもなんのことだかよくわかっていない、ということ。

総括という言葉を筆頭に、耳慣れぬ言葉や空虚な概念が飛び交って、思わず笑いそうになるが、これは一応はフィクションではあるけれども、実際に人が死んでいる場面を再現している。閉ざされた空間の狂気が増幅していく過程が、さもありそうで、気分が悪くなる。リーダーの自己陶酔の極みのような「責任」の取り方は、観ていて気味が悪い。

抽象という概念は、実体がないから、どこまででも昇ることができるが、落ちるときは一瞬である。それが死である必要はないのだが、行き止まりはいつもデッドエンドで、唐突に人が死ぬ。それが何人も何人もと続いていくと、次第に感覚が麻痺していく。

最後まで見て不思議に思ったのは、この映画が面白いことである。感動的な部分も、劇的な成功もない。なのに目が離せなかった。