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『自然主義文学盛衰史』正宗白鳥著・講談社文芸文庫
かつて自然主義文学作家の一群がいた。
尾崎紅葉を喪った硯友社が文壇の、主の座から転落すると、瞬く間に日本の文壇を席捲し、消えた。
日本の文壇は、内容ではなくて、交友範囲、師弟関係から分類されることがほとんどだから、実際に自然主義文学派に自然主義文学でない作家はたくさんいたし、夏目漱石門下に、自然主義作家もいれば、硯友社にもいた。わかりにくいことこの上ない。
自然主義文学作家の代表的人物を列挙すると、藤村、秋声、秋江、花袋、青華、風葉、天外、そして、本書の著者である白鳥。
福田和也なんかにいわせると、日本の自然主義文学というのは、フランスの作家ゾラなどの誤読から始まった、ということになるのだろうけれど、これは読み方が浅い。確かに出発点としては、そういうことを挙げることもできるのだろうけれど、フランスの自然主義文学と、日本の自然主義文学が同じものであるわけがない。そういう前提をなくして、批評を下すのは、思考停止状態だといわれても仕方がない。
正宗白鳥が自然主義文学を、世界の古今の文学史に例のない文学として、挙げている理由が二つある。ひとつはモデル問題である。
田山花袋の『蒲団』を嚆矢とするこの問題は、自然主義勃興以来、日本の文学に取り入れられたスタイルだが、西洋と違って、
「こまこまと知人日常の言語行動を作中に取り入れて、これを小説作法の常例として、作家も読者も評家も怪しまないのは珍しい。(中略)はじめから悪意をもってモデルを取り扱っている作品もあるのだが、文壇的にはそれが不徳行為のように見做されていない」
こと。
そして、本書の白眉である、自然主義文学を喝破した一節、
「日本の自然主義作家と作品の一むれは、世界文学史に類例のない一種特別のものと云うべく、稚拙な筆、雑駁な文章で、凡庸人の艱難苦悶を直写したのが、この派の作品なのだ。人に面白く読ませようと心掛けないのも、この派の特色であった。(中略)同じ自然主義文学作品にしても西洋のそれ等は面白いのに、日本のは面白味が乏しい。それは才能の相違に依るのだが、態度の相違にも依るのだ。誇張して云うと、自然主義の功績と弊害はこんなところにあるのだ。「自然主義が小説を面白くなくした。」と、よく云われていたが、面白くなくしたところに、この派の特色があったと云ってもいい」
また、当時の読売新聞の馬場恒吾の短い記事を紹介して、
「ユーゴーの小説、ハーディの小説、或いはトルストイの戦争と平和などを読むと、はじめから面白ずくめのものではない。随分読みづらい。しかし、それを我慢して読むと、深く心が惹き入れられて、忘れ難い思いがされる。面白く読んで、読んでしまうとそれっきりの小説とは異なっている。日本にもそういう面白くない小説が出なければ、文学も詰まらない。」
という。
もちろん、これを文字通りに受け入れるべきものではないことは言をまたないけれど、ただし、自然主義作家らに影響されて、夏目漱石が『道草』を書いたこと、森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』を書いたことは看過すべきことではないように思う。
本書は、明治末期から大正初期にかけての、薄汚く、いやらしくて、醜体をさらし、ときには紳士的にとりすましながら、紙の上に、自己を抛りだした一群の自然主義作家らの群像劇。読み応え抜群。
是非ご一読を。
『シンデレラの銃弾』ジョン・D・マクドナルド著・河出文庫
コンクリートの下の死体、湖底に沈んだ車、自殺でない自殺、魅力的な赤毛女と発狂した元海兵隊員。
捕虜収容所で、いまわの際に放った戦友の懺悔の言葉が、アメリカの片田舎の町を全国規模の犯罪にまきこんでいく。
チャンドラー・スクールの優等生とうたわれるマクドナルドの14作目の長編小説。有名な作家の割りに、日本語で読める小説が少ないのが残念。
『族長の秋』ガルシア=マルケス著・集英社文庫
極彩色の言葉につむがれた奔流のような物語。「独裁者の牧場」とも呼ばれるラテン・アメリカの特殊な政治状況からうまれた、特異な権力者を主人公にしたマルケス特有の幻想譚。
通常の章立てとは関係なく、段落や改行はなく、中間にはさまる空白の頁が実質上、六つの章に本書をわけている。四章をのぞく、すべてが本書の主人公である、「百歳まで背が伸び、百五十歳のときに歯の生え変わりがあったといううわさ」のある容貌怪異な大統領の死体の発見からはじまっている。
物語の語り手が、章ごとにかわり、そのたびに反復される物語が微妙にずれ、あるいは拡大され、ある物語を流布させていく過程を作中の物語をあたかも追体験させるように、ふしぎなリズムをきざんでゆく。
子ども二千人の命とひきかえに考案された宝くじを当てるための確実な方法や、唯一無二の懐刀の陸軍中将を香辛料をたっぷりときかせてローストしたり、通りを歩いていて目につく女を陵辱したり、おもいつくかぎりの奇行と悪業のかぎりをつくしながら、自分ほど民衆に愛されているものはいないというゆるぎない確信を持ちつづけたゆっくりと沈みゆく水死人の眠りのような大統領の一生をえがく。
『世にも奇妙な遺言集』ライアン・マッケイ&クリス・メイナード監修・ブルース・インターアクションズ
歌舞伎町を歩いていると、磁石のように黒服が寄ってくる。一口に黒服とはいうものの、売り言葉が一人一人違う。
「おっぱぶ、いかがっすかー」
「どっすかー、乳首ダブルクリック」
「お待たせいたしました。二名様、キャバクラこちらです」
50メートル歩くだけで、このボキャブラリーである。まさか、乳首とダブルクリックをつなげてくるとは思いもしなかったし、まさか、並んでいない我々をつかまえて、お待たせいたしました、とは想像もつかなかった。会話の妙とはいわないまでも、座布団ぐらい差し上げたい。
本書は、作家、哲学者、詩人、政治家、軍人、画家などありとあらゆる人間の、最後の言葉を集めた、一種のアフォリズム集。この本が出色なのは、マルクスやワイルド、ヒューム、オーウェル、カフカなど錚錚たる面々にまじって、死刑囚の最後の言葉が数多く書き留められているところにある。
「さあ、見物の皆さん、これから焼きりんごが出来るのをお見せしよう!」
……ジョージ・アッペル:電気椅子刑
みたいに、ザ・アメリカみたいなものから、歌舞伎町の黒服を凌駕する
「釣りに行くほうがいいな」……ジミー・グラス:電気椅子刑
みたいにちょっと渋いのまで、30人近くの死刑囚の言葉を載録している。
一番トンデルのは、まさかのアレン・ギンズバーグ。
「じゃーねー」。
さすがビート詩人。
み
『囚人狂時代』見沢知廉著・新潮文庫
三島由紀夫の理念を受け継ぐ、バリバリの新右翼、一水会のリーダーで、ゲリラを指導し、公安スパイの粛清事件で、懲役12年の実刑判決をうけた、見沢知廉の獄中記。
あとがきに、「この作品は、本当に楽しんで書いた」とあるように、驚異的なスピードで書かれている。
川越少年刑務所にはじまり、関東で大きな事件をおこしたものすべてが集まる、長期刑務所、千葉刑務所、刑務所の墓場、八王子医療刑務所を通過して、千葉刑務所に送還されて、監獄を出るまで、が記されている。
著者自身が、重大事件の犯罪者だけあって、留置場では、「三越事件」の社長、「ホテル・ニュージャパン」のあの人、千葉刑務所で、狭山事件や「金属バット殺人」の彼、あさま山荘事件で無期懲役となった「あさまさん」などと出会い、メディアが消費し尽くしたあとの、その後の受刑者の姿を独特の乾いた視線で描く。
ペンネームの由来は、「三島由紀夫を深く尊敬していた。見沢という筆名も、書店で三島の隣に並びたいからという理由で付けた。」(ウィキペディアより)
『調律の帝国』見沢知廉著・新潮社
監獄の中での自由とは、夢をみることと息をすること、その二つである。
「過酷な冬が越せずに、数人の弱い囚人が獄死する。文字通り骨と皮だけになり腰骨が突き出て死斑の浮いた、顔に白い小さな布を被せた屍体には、規則だからと手錠を掛ける。台車板に腕をゴムバンドで固定され、枯れた蔦の絡まる裏門から、がらがらと台車の音とともに医務部と看守が搬出して行く」
監獄では、死すら自由ではない。
本書は、監獄の地獄絵図を描いた小説である。タイトルがうまい。
主人公であるSは左翼的爆弾政治犯であり、人を殺して収監されている。精神科医との面談では、「健康な時に、白血球がひたすら増殖したら、人間は白血病で死にます。しかし生体が傷ついて血を流している時、そのマクロファージこそが、傷口を治療し生体を保持するんです。白血球が罪悪感を感じたら歴史は発展しなかった」という独自の、自己になぞらえた白血球論を展開する。監獄のなかで、左翼的論理の洗脳からとけるものの、出発点を間違えているためか、贖罪についての論理的整合性はあるものの、チューニングはずれたまま。
監獄法では、罪を浄化する手段をふたつに限定している。ひとつは宗教教育であり、もうひとつは交友関係を断ち切らせ、親族だけに接見文通を許し、魂を肉親のもとに回帰させる方法だ。Sはそのどちらもとらず、独自の方法、すなわち、「小説を創作する過程でかつての自己を徹底的に開示し、ゲリラ闘争から生じた全能感、そこから殺人へと走った内面の深層を掘り下げて初めて罪を意識化しようとする」。簡単にいえば、反抗である。
反抗すれば、懲罰である。
ミシェル・フーコーがいうように、暴力は主体ではない。権力というのは、あくまで関係性であり、監獄内に世間で構築した関係性は持ち込めない。
圧倒的無力に陥ると、人間は、簡単に折れる。ただでさえ発狂の臨界線上にある監獄で、懲罰と独房という言葉の響きは、どんな不良囚も反抗囚をも、土下座し、涙し、靴をなめ、哀願させる力を持っている。しかし、それでも反抗を続けると、一般の囚人には殆ど知られることのない、二つの暗渠が口をひらく。
「暗い四方緑色リノリウムの狭く臭い房に猿轡を咬まされた囚人は厚皮の後ろ手錠、大小便も囚衣に放出しろと足も縛られて、放り込まれる」保護房と、「窓は錆びた鉄板で打ち付けられ、房内天井に監視カメラ、マイクが埋め込まれ、私物を房外に仮り置きされ、水道も含めて突起物がない白く煌々とした」自殺房である。Sも、著者である見沢知廉も、この自殺房の常連であった。つまり、反抗しつづけた。
長期囚の絶望というのは、あくまで想像どおりである。
「親が死んだ、妻や女が逃げた、子供や兄弟が自分のせいで苛められて自殺した、再逮捕や事故で刑が増えてしまった……そんな絶望に直面して自暴自棄になった囚人は、暴れ、工場から七号舎(※自殺房)に送られ、こうして最後は金城のように壁や鉄扉を蹴り、泣き喚き、鉄格子にしがみついて手が痺れるまで揺さぶり、嘔吐し、転げ回る。長期囚の妻や恋人は殆んどの場合、その長い刑期が待てずに離婚書類を獄に送ってくる。愛した女が、他の男と肉体を重ねて性の悦楽に浸ることを、容認し諦めるのが長期囚の常識だった。そこまで堕ちるとやがては誰も、思考と感情、そして苦しみから錯乱する人間らしさまで失って、独房の片隅で茫然と生きた屍になって行くのだった。」
長期囚は世間と杜絶した監獄のなかで、
「正月には落雁、クリスマスにはケーキ、七草には七草粥、節分には大豆、雛祭りには霰、端午の節句には柏餅、彼岸にはお萩……」
というグレゴリオ暦も真っ青なぐらいに暦に忠実な、時間のとまった中で、チューニングされていく。しかし、正しく、チューニングされて監獄から出荷された楽器は、誰の演者の手にもわたらず、またゆっくりと同じぐらいの時間をかけて狂っていく。
この小説は、間違いなく良い小説ではなく、間違っても教科書なんかにも載らず、光をあびることも、ないだろう。けれども、何故か、美しい。
「Sは、小説を便箋に清書する。備え付けのラジオスピーカーからは、演歌や歌謡曲、まれにポップスが耳に流れてくる。どこかで便所を流す音が聞こえる。鎮まりきった獄廊。咳一つするのも憚られるぐらいだ。看守の足音が響く。官覧新聞を房から房へ回す、紙の擦れる音がする。房内でSが飼っている蜘蛛が、机の上を無音で散歩している。静かだ。電気製品が一つもない部屋。ペンだけが唯一の生物のようにしなやかに動く」
見沢知廉は、日本ではじめて、監獄内で小説を書き、監獄から投稿して、デビューした。
『レター教室』三島由紀夫著・ちくま文庫=○
『樋口一葉の手紙教室』森まゆみ著・ちくま文庫と一緒に買って、そのまま埋もれていたのを読み直しました。一葉の『通俗書簡文』が読みたかったのと、純粋に手紙の勉強がしたかったという理由で、学生時分に求めましたが、三島は戯作調、森は掌編小説風で、ちっとも手紙のことが学べず(学ぶにしては応用編にすぎる!)憤慨して放置していたのですが、読み直すと良い。
形容詞を間違っているけれども、堅牢なゴスロリ風の文体で魅了してくれる三島由紀夫の小説とは、また違ったお茶目さがあって、たまらなく素敵。プロットは凡庸だけれども、「キチンと封をされた紙の密室」や、肉体的な愛の申し込みの章にある、「セロファン」のくだりなどの表現にしびれる。しびれるけれども、しかし、ちくま文庫の人がいうように、「手紙を書くのが苦手なあなたに贈る粋な文例集」とは思えない。
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『海辺のカフカ』村上春樹著・新潮社 上・下巻
「海辺のカフカ」とは、まず、小説の名前であり、壁にかかった油絵の中に描かれている12歳の少年のことであり、そして、地方都市にすむ19歳のシャイな女の子が遠い場所にいる恋人を想う歌詞を書き、ピアノに向かって曲をつくり、それをなんのてらいもなくありのままに歌った音楽、である。
物語は大きく二つに交差している。
田村カフカという15歳の少年が「世界でいちばんタフな15歳」になるために、あてもなく、四国に向かう物語と、9歳のときに事故にあってそれ以前の記憶と能力を失ったかわりに猫と話せるようになったナカタさん、という独特の話し方をする老人。
東京都中野区に住む二人は、まったく関りを持たない暮しをしながら、ひょんなことから、「入り口の石」をめぐって、永い旅をすることになる。
主人公の、カフカという名前は、フランツ・カフカから借用しており(少年が自分でつけた、という設定になっている)、その作品自体にも、数回言及している。
また、チェコ語で、カフカは、カラスという意味でもあり、この名前に照応するかのように、物語は、主人公の僕(田村カフカ)とその内面の姿を具象化したもうひとりの僕、カラスという名前の主人公が登場する。
そもそも、村上春樹が15歳の少年を主人公にするという設定に無理があったのか、高速バスの隣に坐った少女のブラジャーをみて「どうして身体の一部がこんなに硬くなれるんだろうというくらいに勃起する」といった状態を除けば、会話やモノローグそのもの自体に、違和感を与え続けている。
ナカタさんという、異色の登場人物といい、フライドチキンのカーネル・サンダーズ大佐といった幻想の怪人物といい、それ自体を並べてみれば、陳腐というのか、安易というのか、想像したものをそのまま書いているような印象を与えかねないフラットなものを多用しており、げんなりするものの、しかしながら、最後の最後まで面白く読んでしまう。
なぜ、村上春樹の小説は面白いのか。
日本の街を舞台に描きながら、湿度をまったく感じさせない乾いた文体、ヴォーリスの建築のように、日本のなかに溶け込んだ西洋をそれと意識させることなく読ませる文章。ミステリー小説のような展開。一冊の本の中に、ふんだんに盛り込まれた音楽と文学。
文学に触れたものだけでも、ざっとひろってみると、
石川啄木、志賀直哉、若山牧水、バートン版『千夜一夜物語』、種田山頭火、谷崎潤一郎、プラトンの『饗宴』、フランツ・カフカ『城』『審判』『変身』『流刑地にて』、夏目漱石『虞美人草』『坑夫』、アドルフ・アイヒマン、ユーリピデス、アイスキュロス、トルストイ、『源氏物語』、上田秋成『雨月物語』(菊花の約(ちぎり))、アンリ・ベルグソン『物質と記憶』、アントン・チェーホフ、ジャン・ジャック・ルソー......。
これ以外にも、オイディプスの謎かけとか、ソローの森の小屋とか、それと触れられてはいないけれども、明らかにそのものを暗示している問いかけが無数に存在している。
満漢全席もかくや、というこの豪華絢爛さを、読者にまったく意識させずに読ませるというのは、村上春樹ならではか。
『69 sixty nine』村上龍著・集英社文庫
K先生とサンテと、新宿をぶらぶら歩きながら、バーを探していたら、だしぬけにサンテがコマ劇裏の公園で、「ここに女子高生のバラバラ死体が捨てられてるんですよね」と言い出して、「そうそう」とK先生が相槌をうちはじめる。村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』の話らしく、未読のためまったくついていけない。悔しくなって、古本屋をはしごしてみつけるも、七軒とも「イン・ザ・ミソスープ」みたいな本しか見当たらず、その代わりに本書を買う。1969年という年は、最近再燃傾向にあるのか、タイトルに1969年が入っている本を書店で見かけたりする。
この本は、1969年に高校生だった村上龍のまわりでおこったことの一部を書いた小説。
主人公は、「サルトルの全集もプルーストの『失われた時を求めて』もジョイスの『ユリシーズ』も中公の世界の文学も東欧文学全集も河出の世界の大思想も密教全集もカーマスートラも資本論も戦争と平和も神曲も死に至る病もケインズ全集もルカーチ全集も谷崎全集もすべて、タイトルだけ」は知っている矢崎と、生まれながらのプロダクション・マネージャー、アダマが繰り広げる、爽快な青春小説。
豊穣な固有名詞の羅列と、思わずふきだしてしまうギャグに、天使のような美女!
矢崎の「フェスティバルたい」の一言が、長崎は米軍基地の町、佐世保を青春特有のばかばかしい熱狂の渦にまきこんでいく。バリケード封鎖あり、喧嘩あり、実験映画あり、演劇あり、ジャズあり、文学あり、政治ありのあまりにも楽しいポップな小説。
『走れ、タカハシ』しかり、こういう明るくて楽しい小説は、村上龍の真骨頂なのか。キラーチューン。
『イン・ザ・ミソスープ』村上龍著・幻冬舎文庫
外国人向けのナイト・アテンダント(性風俗案内)のケンジ(20歳)が、いつもと同じように仕事を受け、クライアントの正体不明の中年アメリカ人、フランクと夜の新宿を歩いていると、ふと奇妙な嘘に気がついてしまう。
トヨタの部品を輸入していると言っているのに、トヨタの車に、まったく興味を示さなかったり、つい一時間前に二人の姉がいるといったばかりなのに、それがいきなり、男の兄弟だけで、みんな野球をしていた、といったりする。
変なのは、今が嘘が必要な場面ではないという点だ。
フランクが支払った、五百円玉ほどの血が乾いた痕のような一万円札をみて、だしぬけにケンジは、女子高生の手足と首をバラバラにして、歌舞伎町のゴミ処理場に捨てたのは、フランクではないかと思うようになる。胸騒ぎを覚えながら、「まるで大火傷を負ったあとによくできた人工の皮膚を貼りなおしたような」顔のフランクと歌舞伎町を歩き続けている間にも、猟奇殺人はケンジのまわりでおこりつづけ、ついにはケンジの前で凄絶な無差別殺人がおこなわれてしまう。
大晦日までの三日間の物語。
タイトルのミソスープは、ぬるま湯につかった人間を暗喩している。
何の因果か、つづけざまに村上龍の小説を読んで気がついたことがある。
それは「退屈」なことをそのまま受け入れる、あるいは、「退屈」なことを押しつける制度や枠組みに対する烈しい憎悪、である。
本書に描かれている、
「猫を実験箱の中に入れて、その中にあるボタンを踏めば、餌が与えられる、それを繰り返して、猫に覚えさせる、訓練するわけだ、その訓練というか学習が済んだあとで、猫を飢餓状態にする、それでまったく同じ実験箱に同じボタンをセットし、踏めば電流が流れるようにする、顔に風が当たるというような電流より軽い刺激でも結果は同じらしい、(中略)餓死するんだ」
という心理テストの話は、当然、猫の話ではなくて、実験箱は、日常に積み重なる、おわりのない小さな失望の世界を象徴する。
随分前に読んだので、読み間違えているかもしれませんが、たしか『五分後の世界』に、退屈な人間たちが住む、劣化した部落みたいなものが描かれていたようにおもう。『69』では、楽しさを追求し続けるための闘争宣言、
「この小説はに登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。
楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。(中略)彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。(中略)唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。
楽しく生きるためにはエネルギーがいる。
戦いである」
が記されているし、本書では、「退屈」なことをそのまま享受する人間は殺戮の対象とさえ、なる。
『限りなく透明に近いブルー』を読んだとき、タイトルそのままのような失望感を抱き続けてきたが、ここにきてはじめて、暗渠として脈々と流れ続ける、村上龍の文学を垣間見た気がする。
本書で村上龍は読売文学賞を受賞しているが、これが直木賞であってもまったくおかしくない。村上龍のうっとうしい文体に辟易した体験のあるひとも、この小説は別格です。
『走れ、タカハシ!』村上龍著・講談社
村上龍の膨大な小説のなかで、本書はおそらく、誰の目にもとまらない、平凡な小説であるに違いない。1985年『テニスボーイの憂鬱』(集英社)と87年『69』(集英社)にはさまれる形で83~85年「小説現代」に連載されたものをまとめて、上梓された短編集(86年)。
『走れ!イチロー』(大森一樹監督、中村雅俊主演)の題で映画化されているものの、題材の広島カープの高橋慶彦からマリナーズのイチローに変更されている上、内容も3人の「イチロー」という名前をもった男三人が、再起をかけ、夢を追い、奮闘する物語に変更されている。
正直なところ、著者のあとがき「スポーツ選手の中に、ストーリーを見いだすのは好きではない」(→じゃあ何故スポーツ小説を書いたんだ!)を読んでも、あるいは映画のあらすじをみても、まったく惹かれるところがない。僕がこの本を買った理由は、まさにタイトルだけで、それも至って個人的な看過できない理由があったからだ。なければ、読まない。
それが、面白いのである。
村上龍は、デビュー作で辟易して以来、一部のSF(『五分後の世界』など)をのぞくと敬遠してきた。社会に対する問題意識をもった作品『希望の国の~』の、あのひどい結末とか、極度のナルシストぶりについていけず、思い出して読むたびに失望してきた。
なのに、本書は、エスカレーターみたいに、ある地点からある地点まで自動的に読者を移動させる、龍の持ち味のひとつである文章のうまさと、作品の軽快さがさわやかで、炭酸飲料みたいな後味のよさがある。
『黄色いチューリップの数式 √-15をイメージすると』バリー・メイザー著・アーティストハウス
優れた本は、優れた質問に支えられている。
「数学においては偽善的行為は不可能だ」といったアンリ・ベール(後のスタンダール)は14歳のとき、負の数かける負の数がなぜ正の数になるかわからなかった。誰に聞いても、「そう決まっている」と答えるだけで、なぜ正の数になるかは説明ができなかった。
数学の数式で当たり前のように使う記号、a,b,c,やx,y,zって何故、x,y,zなのか?
こうした素朴な、あるいは数学の根本に迫った疑問を読者と一緒に丁寧に読み解きながら、虚数をイメージしていく。
虚数というのは簡単にいうと、非現実の数のことである。
ピタゴラス学派の人々は、√2を分数、つまり整数の比であらわすことは不可能であることをしっていた。かの教団にとって、宇宙は自然数によって形づくられているということになっていたから、この事実は彼らにとって致命傷だった。実際にこの事実を外部にもらした人間は罰として水の中に沈めて殺していた。彼らの教義を守るために、である。
虚数をイメージするための方法は二つある。
「第1に、数を「変形」として理解し、
第2に、その変形を視覚化する。」
ガルシア・マルケスは10代のとき、カフカの『変身』をはじめて読み、こうした書き方が「許されている」ことに文字どおり、椅子から転げ落ちるような衝撃を受けた。
想像力を拡張するとき、それは破壊的な痛みと衝撃を伴う。
心理学者によれば、五ヶ月の赤ちゃんですら、1+1と2-1の違いがわかるという。
こういう本を高校生の時分に読んでいたりしたら、人生がかわっていたかもしれない。
本書の題は、詩人・ジョン・アシュベリーの散文詩
「たとえばチューリップの黄色は、一瞬だけ輝く。それが消えた後、想像の産物でも自己暗示でもなかったことを我々は確信できるが、同時にそれは失われた記憶のように無用になる。」(『それが何であろうが、あなたがどこにいようが』)
に由来。