『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド著・村上春樹訳・中央公論新社
書き出しのあまりの静かなはじまりに、思わず満員電車に乗っていることも忘れて、つい見入ってしまう。
「今日は君に、とてもだいじな頼みごとをしなくちゃならない」
ギャツビーが主人公のニックに、だしぬけにお願いをするところから、うすもやのかかった物語の背景が、さっとテーブルクロスを引き剥がしたように、転換する。
ギャツビーは、ヴィルヘルム皇帝の甥であるとか、人を殺したことがあるとか、オックスフォード出身だとか、かまびすしい噂の持ち主で、豪邸にひとりですみ、夜な夜なパーティを開く、貴族のような雰囲気を漂わせる謎の男。
ニックは、
「人は誰しも自分のことを、何かひとつくたいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだーー世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないひとりだ」というような、正直もので、
「自分に嘘をついてそれを名誉と考えるには五歳ばかり年を取りすぎている」。
この一見、相容れない男二人が、ニックの再従弟(マタイトコ)の娘であるデイジーを中心にしながら培われていく、ふしぎな友情と信頼を描きだした、純愛物語。
いまどき、純愛という言葉を使うのは、気恥ずかしくて嫌気がさすが、恋に落ちて、その想いをつげるときの、あまりのつつましい姿に、ばかばかしいぐらいの美しさがあるような気がしました。
「汚辱に塗れた人々の生」『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』ミシェル・フーコー著・ちくま学芸文庫
「汚辱に塗れた人々の生」は、静かな哲学者、ジル・ドゥルーズが『フーコー』(河出文庫)で何度も言及し、珍しく「傑作」と褒め称えたエッセイのひとつ。
フーコーは『狂気の歴史』以来、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘し続けていた。それはたとえば、
「マチュラン・ミラン、一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監―<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」。
というものであり、数行、あるいは数頁の、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険である。
それがたとえ、ほんのささいな逸脱であっても、告発されたものはすでに、たちまち恐るべき者と化す。一度でもこうした「政治的鎖」にからみとられれば、そこから逃れる術はないのだ。後は、ただ沈黙があるのみ。
ただし、この圧縮されたテクストのなかには、フーコーに「一瞬の閃光」を与えるような、エネルギーがある。権力と衝突し、それと格闘し、またはその罠から逃れようとし、捕まった、一瞬の緊迫した生の記録。
「権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち」。ここにこそ、卑小な実存にとっての記念碑がある、という。
また、文学は他のいかなる形式の言語活動よりも「汚辱」のディスクールであるといい、
「もっとも語り難きもの―もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも呵責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。」
という、特異な位置から語られる文学論が、権力の構造を貫通している。
何よりもこの一篇は、世に知られることなく埋没した人々のための、フーコーの詩であろう。
『わたしは花火師です フーコーは語る』ミシェル・フーコー著・中山元訳・ちくま学芸文庫
フーコー哲学の真骨頂は、たとえば、知と権力の関係を読み解いて、プラトン以来、対立してきた知と権力の関係が、反対に権力の内部に取り込まれていることを明らかにしたり、あるいはオピタル(施療院、あるいは病院)という装置を中世にさかのぼり、そもそも病院の淵源である施療院が「人が死ぬために訪れる場所」であり、「いかなる意味でも治癒のための手段ではありませんでした。そのような装置として構想されたものですらなかった」という衝撃的な事実を明らかにする、ニーチェの系譜学的な思考を受け継いだ、考古学的な知のありかただといえるのではないでしょうか。
フーコーの仕事は、主要な著作の邦題、『狂気の歴史』、『知の考古学』『監獄の誕生』をみればわかるように、アクチュアルな現在を批評するだけでなく、例えば、『狂気の歴史』であれば、狂気が生成された、バルトのいう、出来事の「零度」に遡り、その事象にニーチェの系譜学的な考察を加えて、現在に還元していくスタイルをとっています。この意味で、いまある現在を絶対的なものとして見なさず、考古学的手法を用いて、現在を禁欲的に考察して読み解いた哲学者であると考えます。
あまり深入りすると帰ってこられなくなる恐れがあるので、笑って読み流していただくとして、まず、フーコーはその最初の学術的主題に「狂気」を選んでいます。ジル・ドゥルーズがいうように、フーコーは、歴史の中から抹消されたものに眼をむけるだけでなく、語られることのなかった「狂気」自身に語らせる機会を与えました。そして、それだけではなく、正気と狂気が科学的に分離可能であるという考え方が、実は近代になってはじめて採用されたものだ、という驚くべき事実をも指摘しています。
フーコーの著作の面白さは、間違いなく、哲学が新しい価値を生み出す、あるいは旧弊の壁を打破する、そういった哲学が生成される瞬間に立ち会うことのできる面白さだと直覚しているのですが、しかしながら、それ以上に独特の用語が難解であり、本書の「花火師」しかり、その洗練されたエクリチュールと
「わたしは、通りすがりに「そうだね。『ラモーの甥』について語らないわけにはゆかないのは、分かるだろう」と言うような散歩者なのだと。」
というような、悪魔のようなユーモアを咀嚼するのは、容易ではありません。
たとえば、フーコーが最後に取り組んでいた「主体化」という用語は、言葉そのままの意味ではないし、例えば「権力」という言葉ひとつ取ってみても、それがそのまま「国家権力」や「管理システム」といった具体的なイメージを想起させる物でもありません。知の標準化、つまり、「ストック趨向性」をもたらす、知的カタログ化をさしており、ややこしいのが、それをこのように記述するとき、このテクスト自体が「権力」、あるいは「ストック趨向性」そのものと化してしまう、パラドックスを孕んでいます。
あんまり、理解できていないのですが、ミハエル・バフチンが『ドストエフスキーの詩学』で語ったような、複線的なポリフォニー理論を語るとき、それが単線化してしまうといったようなことなのではないでしょうか。ウィトゲンシュタインが沈黙した、語りえぬもの、について全身全霊をかけて突貫していく、そのスタイルゆえに、フーコーは古びることがないと思います。
脂ののりきった70年代後半のフーコーによる、格好の著作案内、という言葉につられて読んだものの、やっぱり、ラビリンスじゃねえか。
誰か、「14歳のためのフーコー」とか、「猿にでもわかるフーコー」とかを書いてくれないものか。過激な入門書があれば読みたし。
『ドゥルーズ入門』檜垣立哉著・ちくま新書
ジル・ドゥルーズは、まずいかなる存在であるよりも前に、哲学史家である。ドゥルーズの師と呼べる人間が、グイエやゲルーといった、きわめて哲学史家的な存在であったことも重要であるし、1968年という記念すべき年の周辺で書かれた二冊の主著(『差異と反復』、『意味の論理学』)を刊行する以前のドゥルーズは、ベルクソン、ヒューム、ニーチェ、スピノザという、哲学のテクストの読解に、忠実な仕事を残している。
それは、たとえば、ドゥルーズの思考総体をとらえようとするときに頻出する述語、「内包性」と「潜在性」という言葉で読み解くことができる。
「内包性」は基本的には、実在が連続していることを原則としている。この「実在」の連続性は、ベルクソンがきわめて印象的に論じていることでもあり、かいつまんでいうと、時間が流れることが、フィルムのように、流れない瞬間の継起によって成立するのであれば、それは流れないものから流れるものを構成してしまうことになる。しかし、分断された瞬間から他の瞬間へと移行するためには、どんなに短くても、その間が必要になる。であるならば、その間には、さらに細かい瞬間が見出されるはずであり、つまり、この作業は無限につづき、ついには時間が流れることなどありえなくなってしまう(ゼノンのパラドックスのようなもの)。
ベルクソンはこうした、すでに空間化されたものから時間の流れを考えることの奇妙さを論じており、これを解消するために、逆の命題、すなわち、ここでいう時間の流れとは、瞬間が連鎖してできあがっているのではなくて、時間はそれそのままにおいて連続的なものであり、こうした連続性こそが実在なのである、という。ベルクソンにとって、実在は持続という分割不可能な流れであり、そのあり方を変容させていく。これが、ドゥルーズのいう、「内包性」という事象である。外延的で、空間化された位相ではない、あるいはそこに回収されえない内包的な実在こそが、持続であり、「潜在性」とは、そのあり方を指し示している。
ドゥルーズは、ベルクソンの思想を徹頭徹尾自己の概念の枠組みのなかにとりいれており、ベルクソンを出発点にして、あらゆる場面でベルクソンの思想に批判を加え、その思想と距離をおきながら、自己の哲学を展開していく。
一方で、スピノザやニーチェに対しては、手放しに肯定しており、ニーチェから得られた「永劫回帰」を時間論の根幹におき、スピノザの「内在」という着想はドゥルーズ独自の唯物論に深く結びついている。
本書は、ドゥルーズの思想史的変遷をたどりながら、前期の主著二冊、『差異と反復』、『意味の論理学』を丹念に読み解いている。
『差異と反復』は、差異を、ひとことでいえば、ポジティブなものとして抽出している。差異こそが、この世界を作り上げている要素であるという。
ここでいう、差異とは、「表象=再現前化」というシステムに従属しないものとして論じられている。「表象」は、差異を二次的なものとみなし、否定的なものに押し込めてしまう。「表象」とは、「同一性」「アナロジー」「対立」「類似」という論理にしたがって作動するシステムである。
近代の発端が、コギト的な自己同一性の地盤が見出されるとともに、それが神という言葉において設定される「無限者」との関連におかれている。デカルト的なコギトは、一般的には意識における自己同一性の哲学を形成しながらも、それはつねに、「無限者」という神に保証されるというロジックをもっている。
ドゥルーズはこうした、有限と無限がある種の調和にあることを、「表象」そのものにつきまとう、有機的(オルジック)なものとしてとらえている。ここでまさに、同時代を併走した哲学者・フーコーとのパラレルな議論がみいだされる。「表象」を酔わせる無限、である。
現代的思考における自己根拠性の喪失が語られるのは(自分探し)、有限的な自己が無限な神に支えられるという図式が崩壊して、有限者が無限そのものの中にあり、つまり、自らであることに底がなく、宙吊りにされて、立つ瀬がなく、酔いはじめることによる。ここには、さまざまなテーマが含まれており、決して中心とまじわることのない、無限の直線(徹底的な迷宮)によって開かれた「第三の時間」を、「空虚な形式」として時間が流れることの、無限の形式性そのものを、「俯瞰」というかたちで無限が有限のなかに入り込んでくることを描いている。
こうした無限の発見と数学を含めた哲学が、近代から現代にかけての思想を規定してきたことは明らかである。
『意味の論理学』は、『差異と反復』から一年をまたずに刊行された。両者の間には密接な結びつきがあるものの、多くの点で、距離をとろうとしている。
この書物では、「表層」にこそ、あるいは、「皮膚」としての「表面」にこだわりつづけている。ここで、深層とは無意味である。無意味であることの意味は、パラドックスとしての威力をもつが、それがあくまで効力をもつのは、「意味」においてである。そして、その「意味」が宿っている場所こそ、「表層」なのである。この「表層」を論じることが、この書物の根幹をなしている。
言葉を使うときには、すでに言葉に意味があるのは前提条件である。しかし、自分が使っている言葉の「意味」を問われても、それを語ることはできない。簡単にいえば、「言葉」は「意味」を扱うにもかかわらず、「意味」は「言語」そのものではありえない。こうして、「言葉」の「意味」を示す「言葉」は、無限に増殖していく。
では、こうした「意味」はどこにあるのか?
「表層」というのが、ドゥルーズの見解である。
こうした「意味」の次元を描くために、いくつかの装置が利用される。
「浮遊するシニフィアン」がそれで、構造主義における構造の成立条件としてのシニフィアン(指し示す記号)の余剰のことをいう。
よくしられたシニフィアンとシニフィエ(指し示される観念)の関係は、パラドックス的で、つねに、シニフィアンが過剰なのである。それゆえ、シニフィエにはいつも不足が生じている。この両者をつなぐのが「マナ」と呼ばれる「ゼロ記号」である。
ラカンの「盗まれた手紙」と同様に、シニフィアンがつねに過剰であることにおいて、記号は記号の指し示すものと一致しない。この一致できないことが、記号的な構造そのものを動かし、支えている。この「浮遊するシニフィアン」に、ドゥルーズは、キャロルの「空白の語」などを読み込んでいく。
この時代は、エクリチュールの方法について極めて、強い関心が喚起された。それはデリダをみれば明らかで、デリダは「脱構築」という自己の姿勢を、テクストの作成そのものに反映させており、軸になっているのは、テクストにつくテクストとでもいうべきあり方である。
ドゥルーズにとって、自覚的にテクストをとらえなおす機会は、デリダ的なものではなく、むしろ、「ガタリ」とともに「二人で書く」ということに積極的に見出される。後期になってからは、顕著に「脱人称化された」テクストの作成が展開されていく。
この本の真におそろしいところは、著者の「あとがき」である。いわく
「この書物は編年体記述の「前半部」にすぎない。」
その意味での「ドゥルーズ入門」であったのかと、ビブリオグラフィーをみて、驚く。これで、二合目なのである。
『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著・筑摩書房
〈読まずにコメントする〉という経験について語ることは、たしかに一定の勇気を要することである――とは、わざわざ引用するまでもないぐらい、皆が勘付いていることである。この種の主題はタブー視されており、いくつもの禁忌を破ることではじめて可能になる。この死線をかいくぐってきた著者は誰か? パリ大学の教授であり、文学を教えている……、とくればいくつもの死線を越えてきた猛者であることは容易に推察できる。
こうした「技術」を磨くぐらいなら読めよ、という単純な指摘は彼には届かない。つまり、読む、という行為にはさまざまな階梯があり、時間という次元を考慮にいれると、読書は時間のなかで推移していくものだからである。実際に、モンテーニュは、「エセー」のなかで、記憶の消失、とくに書物についての記憶の喪失を、読書だけではなく、自分が書いたものにも認めている。書物が読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念自体がいかなる有効性ももたなくなってしまう。つまり、読んだ記憶がないのであれば、開いた本も開かない本も等価だということになりかねない。
こうした純粋なる読むことへの懐疑をさまざまな作家の言葉を通じて分析し発展させていくのが、本書の主題であるが、この本の醍醐味はそこにはない。ポール・ヴァレリーである。
ヴァレリーは、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出された、フランスの代表的知性と謳われた詩人であり、文学者である。本を読まないという行為において、もっともラディカルなのは、一度も本を開かないということだが、ヴァレリーは、その中でも筆頭格にあげられるべき存在であり、自身そのことを口外して憚らなかった。(つまり、ぜんぜん読まなかった!? らしい)
ぜんぜん読んだことのないプルーストへのオマージュや、同時代のもう一人の大作家だった大嫌いなアナトール・フランスについての演説はよみごたえがある。
アカデミー・フランセーズには慣例として、前任者をたたえる演説をしなければならないのだが、ヴァレリーは、冒頭から、自分に課せられた義務を周到に回避している。ヴァレリーは、演説のあいだずっと、彼にオマージュをささげないですむように工夫を凝らしており、アナトール・フランスの名前を一度も口にしないだけではなく、彼の作品は万人受けするというとどめの一撃をくらわしている。また、二十世紀前半のもうひとりの巨人・ベルクソンにたいする彼のオマージュもまた例外ではない。「私は氏の哲学の中身を論じるつもりはありません」というこの言葉は、単なる決まり文句ではなく、本音であるおそれすらある。
こうしたユーモアがふんだんに散りばめられている本は、危険である。危険なほど面白い。うかつに踏み込むと足をすくわれる。実際に、すくう構造にもなっている。ご注意を。
『時代と人間』堀田善衛著・徳間書店
小林信彦が30代を通して、小林秀雄にすがりつくように読みふけったように、宮崎駿にとって、堀田善衛は、「海原に屹立している巌のような方だった」。
堀田善衛は、「考える人」として、よく知られていると思うし、また『広場の孤独』のような稠密な孤独について描いた作家でもある。
『方丈記』を美しい散文としてではなく、乱世を描いたドキュメンタリーとして読み直した『方丈記私記』や、超現実の言語芸術、『新古今和歌集』を編纂した藤原定家の『明月記』を鎌倉時代の雑誌編集者のような目で読み込んだ『定家明月記私抄』など、その透徹した視線は、古典を古典として終わらせない、墨が乾かぬ現実として捉えられている。
本書は、いままで、堀田善衛が書き続けてきた人物についての考察を、鴨長明、藤原定家、法王ボニファティウス、モンテーニュ、ゴヤを中心に、NHKの講座用に書き下ろした一冊。
モンテーニュをミシェルさんと呼ぶ、親しみ方に意表をつかれる。モンテーニュに「ミシェルさん」などと呼びかけるひとは、この人が最初で最後に違いない。名著。
『盗まれた街』ジャック・フィニィ著・福島正実訳・早川書房
フィニィの『盗まれた街』は何度も映画化(原題の「THE BODY SNATCHERS」や「インベージョン」など)されており、ご覧になられた方も多いかもしれない。記憶違いかもしれないが、中学生のころ、深夜映画で、宇宙人に寄生された人間をみわけるサングラスをかけて、侵略してきた宇宙人と戦う映画をみた。
サングラスをかけると自分の生まれた街が、実はもうほとんど宇宙人にのっとられていて、愕然とする。主人公は自分の生まれ育った町、仲間を守ろうと、決死の戦いを挑むが、多勢に無勢、宇宙人らに追い詰められてしまう。最後のシーンが圧巻で、街中の人間という人間に追いかけられるのである。ただ、追いかけられるだけなのだが、どんな恐怖映画よりも怖く、画面から目が離せなくなった。どこに逃げようにも、寄生されたうつろな人間が街中をうろついていて、安全な場所などないのである。主人公たちは、この絶望的な状況の中を、ただただ、力の限り、走り続けるしかないのである。力尽きれば宇宙人に捕まえられて寄生されてしまうのだ。主人公は、恋人の手をひき、街の路地を、下り坂という下り坂を、全力でかけおりていく。飛ぶように。
この視覚的効果が絶大で、手に汗にぎりながら、この先どうなるんだろうと、画面に釘づけになった。最後は、まさかの展開が待ち受けているわけだけれども、こうした、画面をうめつくすような人間の集合体に追いかけまわされるという場面が、頭に焼きついたまま離れない。多分、フィニィの小説の映画化なのだと思うが、ツタヤでは見つけられなかった。ご存知の方は教えてください。
原作には、当然、サングラスはでてこない。
アメリカ西海岸沿いの小さな街、サンタ・マイラで、ちょっとした違和感を感じ始める人間がでてくる。叔父さんが叔父さんではなくなった、自分の娘が娘ではない、子供たちが学校の先生が先生ではなくなった、と開業医のマイルズに訴えるのだ。自分の手にあまると判断したマイルズは、心理学者の友人を呼んで診察してもらうが、彼らに異常は見当たらないという。異常なのは、伝染病のように同時多発的に、同じ妄想を抱いた人間が同じ街にいることだった。はじめ、心理学者はヨーロッパで猖獗(しょうけつ)を極めた舞踏病や、1944年、マットゥーンの町で起こった集団ヒステリーの一種ではないかと考えたが、マイルズの元に、作家のジャックが浮かぬ顔をして現れて、事件が大きく動き出す。
ジャックが、マイルズにある死体を見て欲しいという。死体には指紋がなく、人間そっくりな形をしているが、人間ではなく、死体ですらなかった。それは人間に変貌しつつある、未完成の何か、だった。
マイルズとジャックは、過去の文献を調べ、あらゆる生物に次々と憑依し続ける、巨大な種子莢に行き当たる。この種子莢は、憑依する対象が眠っている間に空気中の水分をもとに、対象のもつ記憶、知識、癖、身体的特徴など、ありとあらゆるものをダウンロードし、それが完了すると、オリジナルに憑依して、オリジナルになりかわるのだ。憑依は着々と進行しており、一週間前に、夫が夫ではなくなった、と訴えていて小柄な女は、迷いから覚めました、と安堵と喜悦に身をよじりながら、機械的な微笑を浮かべている。
眼下に横たわる、生まれ故郷からは、日常の活動が失われており、屋根やポーチの修繕はおろか、ガラスが割れたのさえなおしていない。庭はほったらかしで、たった数週間の間に、廃墟のようになっていた。サンタ・マイラはこの種子莢にほとんどのっとられており、憑依された博士は、スコットランドの物理学者にして、絶対温度の創設者である、ケルヴィン卿にならって、彼らがはるか宇宙の彼方から漂流してきた生命体である、という。
ある惑星がゆっくりと、測り知れぬほどの時間のうちに滅びようとする。この生命体は、死滅に備えなければならなかった。時間は充分にあり、彼らは、彼らが遭遇するであろうあらゆる可能性のあらゆる環境のもとに生きるあらゆる生命体の、どれに対しても順応し、同化できる能力を開発し、惑星を離れて飛び立ったのだ、と。完全な寄生生物として。
寄生された、元・マイルズの友人たちはこぞって、寄生された後の世界観が案外悪いものではないとすすめてくる。ストレスもなければ不安もなく、平和で、穏やかで、食べ物は依然としてうまくて、読書だってできるんだ、と。
でも、とマイルズは静かに言葉をかえす。
「しかし本を書くことはしなくなる」
という。
「ものを書こうという意欲も、苦しみも希望のなくなる。いや、ものを創造しようという感情を感ずることさえなくなるんだ。」
と。説得工作が失敗に終ると、今度は力づくでマイルズらを転身させようとする。その魔手をすんでのところですりぬけると、今度は、街中の人間がマイルズたちをつかまえようと総出で追いかけてくる。
息をひそめ、暗闇の中にまぎれ、なんとかして街の外に逃げ出そうとするも、街の出入り口にはバリケードが敷き詰められ、脱出不可能なことを知る。そこで、マイルズたちは、文字通り、命をかけた最後の反撃にうってでる。
SFの古典中の古典。ペダンティックな会話の応酬がたまらない。とても1955年に書かれたとは思えない。まさに不朽の名作。
『少年少女世界の大探検① コンチキ号漂流記』ハイエルダール著・あかね書房
イースター島や、タヒチ島、ファツ・ヒバ、サモア諸島などの南太平洋の島々の遺物と、ペルー・インカの遺物には共通点があった。そして、南太平洋の島々には、昔、彼らの祖先が海を渡ってやってきたという伝説が残されていた。
ノルウェーの人類学者・トール・ハイエルダールは、一つの仮説をたてた。
彼らは、はるかペルーから海を渡ってきた同じ一族なのではないか、と。その仮説を裏付けるように、今からおよそ400年前、スペイン人がはじめてペルーにやってきたとき、インカ帝国の原住民、インカ族は、大石像やピラミッドは自分たちが建造したものではない、といったという。これは、太陽の神の子孫だという、先住民らが残したものだと。
古い伝説によると、彼らは大昔に北からやってきて、インカ族に農業や生活の知恵を伝え、ある日、大きないかだに乗って、海にこぎだしていったという。
この仮説は、南米の古代民族は大海に乗り出す大船ももたず、航海術を知っていた証拠もなく、ゆえに、南太平洋の島まで多数の民族が移住できたはずがないとにべもなく退けられる。
なるほど、机上の空論では拉致があかないと直覚したハイエルダールは仲間を集めて、インカ人のいかだのスケッチをもとに、バルサの大木を切り出して、 リアナで結わえ、マングローブのマストで、当時のいかだを再現し、実際にたどり着けるかどうかを自分の肉体で証明しようと決心した。
1947年4月28日、ハイエルダールと五名の乗組員はペルーの海岸を漕ぎ出して、はるか南太平の島々をめざして、フンボルト海流を文字通り命がけで漂流する。本書は、およそ100日間にわたる漂流記である。
本書は、タイトルどおり児童版である。
装丁が夢と浪漫に彩られ、成人が携帯するには難しい問題を孕んでいるけれども、大変愉快。
モアイは昔、赤いかつらのような帽子をかぶっていた。それは、おそらく、コンチキの部下が赤い髪をしており、石像の顎がとがっているのは、彼らが顎鬚を伸ばしていたからだ、という指摘と、モアイの立て方など、図入りで説明しているのがわかりやすい。
デビルフィッシュ(タコ、イカ、大エイ、アンコウなど)の悪夢に怯えたり、かと思えば、サメの尻尾をつかんで遊んだり、果ては命がけで競泳してみたりと、時間を刻まれていない、冒険の記録がつづられている。
児童版とはいえど、生魚の肉から塩気のない水がしぼりとれることなど、漂流記の実践について具体的に語られている。とても恥ずかしい思いをして読了したら、想像通り、大人版があった。
筑摩書房の『世界ノンフィクション ヴェリタ』16巻がそれで、書名が『世界~』で、しかも著者名が登録されていないので、キーワードとしてひっかからない。もし図書館で、読まれる方がいらしたらご注意を。
海洋人類学とでも呼ぶべき、ハイエルダールは、ヘイエルダールとも表記され、他に、イースター島の秘密に迫ったノン・フィクション『アク・アク』社会思想社、などがある。
『ホルモン力が人生を変える』堀江重郎著・小学館101新書
人生を「男性ホルモン」で読み解いた、きわめて刺激的な一冊。
およそ耳になじみのないこの言葉は、1931年に、ブーテナント博士が発見した男性ホルモンの一部、アンドロステロンに端を発する。博士は、この発見をもとに、1939年にノーベル化学賞を受賞した。 「男性ホルモン」は、=「テストステロン」で、実に多くの驚くべき作用が報告されている。
たとえば、膨大なプレッシャーのもとで働く株式トレーダーのなかでも、特に儲けているトレーダーは、テストステロン値が高いという。
男性ホルモン値が上昇すればするほど、自信と冒険心が増し、勝利の機会を高めていく。俗にいう「ウィナーズ・エフェクト」で、成功が成功を呼ぶ、黄金パターンがうまれる。まさしく、男は褒めて伸ばせの科学である。
逆に、失敗したり、株価が下落しはじめると、副腎皮質ホルモンの一種で、ストレスから分泌されるコーチゾール値が上昇して、疲労がたまり、うつ気味になる。
脳には、扁桃体と呼ばれる部分があり、人生でこれまで経験してきた恐怖や悲しみをストックしている。この扁桃体に作用するのが、男性ホルモンと、ストレスホルモンのコーチゾールなのである。男性ホルモンは、扁桃体にしっかり蓋をするホルモンだが、コーチゾールは反対に蓋をあける。男性ホルモン値が低く、コーチゾールが高いと、典型的なうつのホルモンバランスといえる。 中島らもは、人間の気分は薬物でどうにでもなると喝破し、お茶漬けにできるぐらいの薬と酒を飲み続けた。らもみたいに生きるのは誰にでもできることではないけれど、ある程度、男性ホルモンはコントロールすることができる。
たとえば、スイーツを食べると、セロトニンを高めてくれる。セロトニンは内省を促すホルモンで、座禅やヨガ、気功などで複式呼吸を行ったり、瞑想をしたりすることで、得られたりする。
そもそもホルモン(hormone)とは、ギリシャ語の「ホルマオ(hormao):刺激する」という言葉で、1905年にウィリアム・バイリスとアーネスト・スターリングがセクレチンをホルモンと表現したことにはじまる。
似たような名前だが、ホルモンとフェロモンは違う。ホルモンが自分の体内で分泌し、他の臓器に作用する物質であるとすれば、フェロモンはファーブル昆虫記で、雌の蛾が雄を惹きつける物質として知られていたように、自分以外の誰かに作用することである。ちなみに、このフェロモンを発見したのも、カールソン博士とブーテナント博士らである。
生物学用語辞典によると、特定の分泌器官から分泌され、血液などで体内を移動して他器官の活性を調整する物質、となる。ホルモンはおよそ、70種類以上あり、体内のさまざまな場所で分泌する。 脳の視床下部から、性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)が分泌され、それに応じてホルモンの生産工場である脳下垂体から性腺刺激ホルモンの黄体形成ホルモン(LH)と卵胞刺激ホルモン(FSH)が放出され、LHは精巣でテストステロン分泌をうながし、FSHが精子をつくる。
男性ホルモンの原料はコレステロールで、テストステロンのほかに、ジヒドロテストステロン、デヒドロエピアンドロステロン、アンドロステロン、アンドロステンジオンがある。メインはテストステロンで、95パーセントは睾丸、残りは副腎で分泌している。
フーコーによれば、学校と病院と監獄は同じころ社会に形成された。コミュニティからある集団を抽出して、管理する、教育するのが管理社会のはじまりで、つまり現代の社会だが、男性ホルモンと管理社会は相性がわるい。というのも、男性ホルモンの本質のひとつが冒険だからである。
冒険は人類の進化と密接に関係している。両生類から発達した生物は、水のなかで生活していた時代と異なり、水へのアクセスが不定期な陸上で生活するために、尿を濃縮している。両生類はこれができないために、水の周縁でしか生きていけない。は虫類系は、尿を濃くできたから、脱水や乾燥に適応して、陸上でも生きられるようになった。
尿を濃くした結果、自分の存在を尿の臭いでアピールできるようになり、テリトリーを主張するようになっていく。マーキングは犬だけでなく、鼠もする。この行為も男性ホルモンが関係しており、精巣を摘出してしまうと、マーキング行動に興味を示さなくなってしまう。
尿を濃縮するホルモンは、抗利尿ホルモン(パゾプレシン)といい、腎臓の尿細管という細胞に働いて、水を輸送するタンパクに働き、水分を体に戻す、再吸収という働きをする。この結果、体の水分量が維持される。
パゾプレシンは、攻撃性や、規律、階級意識、自己の領域を護る意識とも関っており、生存の難しい世界に縄張り意識をもたらし、生物同士の争いのひきがねをひいた。
このパゾプレシンと男性ホルモンは、連動しており、減少するときは同時になくなる。若いときは夜寝ている間、パゾプレシンが高くなるために、小便で目をさますことはないが、年をとると、二度も三度も夜中にトイレにたつようになる。このパゾプレシンが減ると、縄張り意識も希薄になる。
極端な例だが、イスラムの世界は、気候が厳しく、水が貴重である。ゆえに、パゾプレシンが高く、尿が濃くなり、縄張り意識が強い。自爆テロの遠因にもつながっているのかもしれない。
精神の平穏と、男性ホルモンのためには、水をのみ、腹式呼吸が効く。内省を促したければ、スイーツを補給し、ぼうっとするのもいいのかもしれない。
男性諸君。是非お試しあれ。
『ベケットと「いじめ」』別役実著・白水Uブックス
サミュエル・ベケットの戯曲に『ゴドーを待ちながら』がある。ウラジミールとエストラゴンという二人の登場人物がしゃべりまくりながら、ゴドーという人物を待っている、言ってしまえばただそれだけのドラマなのだが、この戯曲がどれだけ面倒、もとい読み甲斐があるかは、まずタイトル。
ゴドーというのは、ゴッド、すなわち「神」のアナグラムであり、背景として、二人は永遠にあらわれることのない神をずっと待っているということを暗示しているだけではなく、この「待つ」という行為もポイントで、というのも「待つ」という行為は行為でありながら同時に行為の否定でもある、というやっかいな側面をもっている。一生懸命やればやるほど何もしてはいけないという、行為の矛盾をあえて演劇化してみせることで、近代劇における行為性の矛盾をつき、近代劇に対する否定のドラマツルギーを演劇論ではなく、演劇で展開していくところが、サミュエル・ベケットの真骨頂であり、彼の演劇が不条理劇とよばれる所以でもある。
不条理劇というのは、かいつまんでいうと、演劇とは何か? ということがそっくりそのまま演劇になるという演劇で、いわば、演劇=演劇論という形式が多く、大概、退屈であるという共通点がある。誤解をおそれずにいうならば、ベケットの面白さというのは彼の紡ぎだした演劇にあるのではなく、演劇とは何かをとことん突き詰めた、その方法の探求にあるといえるのかもしれない(ベケットの戯曲には、登場人物が「口」や「聴き手」という、一見して、というかおよそ登場人物とは思えない『わたしじゃない』や約35秒で終わってしまう『息』など、素朴な読者を撥ね返す作品が多い……)。
このベケットを、日本のベケットと呼ばれた別役実が、「いじめ」のメカニズムとからめて読み解いたのが本書。
まずドラマを、
「人間が主役ではなくて、関係が主役で、関係のメカニズムを探ることによってかろうじて人間が確かめられるということでもあります。つまりそれがドラマである。」
と定義した上で、人間存在そのものが、ドラマツルギーの変容とともに、独立して完結した存在である「個」から、関係のなかの「弧」、つまり核のようなものに変わってきたのではないかと問いかけ、いじめ問題の中心である、関係のメカニズムとベケットの方法論が交差している場所を、解き明かしていく。
ただし、講演を文字化しているためか、「一般的にいうと自殺というのは敗北なんです。他殺というのは勝利です。」など意識の低い言葉が記録されているのが目につく。
個人的には、「いじめ」問題について言及するリアリティが感じられなかったのが残念。演題として与えられていたのだろうから仕方ないにせよ、ベケットと演劇についての記述だけで、十分読むに値すると感じるのは、わたしだけか。
『塵に訊け!』ジョン・ファンテ著・DHC
色川武大に、深沢七郎が必要だったように、「安ワイン派」のチャールズ・ブコウスキーには、ビート文学の先駆者、ジョン・ファンテという作家は、なくてはならない存在だった。
ファンテは、略歴、作家としての活動、作品、どれをとってもブコウスキーを彷彿とさせる。それは当然で、ブコウスキーは、この作品で、彼の「魔法」をみつけたからだ。ブコウスキーがどれほど、ファンテにいれこんでいたかは、彼が書いた序を読めばよくわかる。
「俺にとって、この本の出だしは野蛮で強烈な奇跡だった。(中略)読み終えるずっと前から、この本の著者は他の作家とは全然違う書き方を編み出しているとわかった。題名は『塵に訊け!』で、著者の名前はジョン・ファンテだった。彼は俺の書くものに生涯の影響を与えた」ではおさまらず、「ファンテは俺の神様だった。神様はそっとしとくべきだ、訪ねていってドアを叩いちゃいけない」みたいに、ブコウスキーらしいチャーミングな書き方で、賛辞がとまらない。
ブコウスキーがお世辞をいったりしない人間であることは、一作でも彼の小説を読んだ読者にならわかるはずだ。
本書は、ジョン・ファンテ自身とおぼしき、アルトゥーロ・バンディーニという駆け出しの小説家が小説家になるまでを、屈折した欲望と、文学への理想を交差させながら、1939年の南カリフォルニア、ロサンゼルスを舞台に描いている。
「世界は塵でできていて、いつかは塵になる。俺は朝のミサに通い始めた。懺悔をした。聖体拝領を受けた。俺は小さな木造の教会を選んだ。ずんぐりしていて頑丈で、メキシコ人地区にあった。そこで俺は祈った。新しいバンディーニ。ああ、人生!」
心を叩きつけて書いている。
『ロッパの悲食記』古川緑波著・ちくま文庫
昭和の喜劇王・古川ロッパ(緑波は筆名)の凄絶な食の求道日記。戦前、戦中、戦後、物資の欠乏時にもかかわらず、とにかく食べに食べている。
いきなり、
「昼食、帝国ホテルのグリルへ、久々で行く。註文制となり、前以て申し込んだ。一人前では困るので影武者(?)を一人連れて行き、その分も食う。彼は、目の前へ並んだものを見るだけだ、辛かろうが、許せ」
ではじまる。表向きは食料がないことになっているので、
「国道に近き処にあるヤミ洋食屋へ行く。キン坊という店なれど、表は閉して、カーテンを引き、休業の札を出してあり、裏から入る」
ここから先は、食の裏街道まっしぐら。日に日に悪くなっていく食事情に、「もう食うまい、寧ろ飢えよう」と思うが、その決意は一行ももたず、「食のために、さまよい出て、横浜へ。紹介を貰ってあり、南京街のK閣というのへ入る。閉め切って食わして呉れるので、暑さ激し。蟹、あわび、そして肉。しまいに炒飯が出る。これが美味し、大いに食う」となる。
本書は、こうした食日記の合間に、エノケン(同時代を並走した喜劇王)、林正之助(吉本の創業者のひとり)、山本嘉次郎(黒澤明の師であり、グルメ王のひとり)、斎藤寅次郎(戦前、戦中の喜劇映画監督、喜劇の王ともいわれた)などロッパならではの交友範囲の広さを見せており、昭和の文化史としての一面も持つ。
『宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか』堀秀道著・どうぶつ社=○
まずタイトルがうまいと思いました。
本書はマクロとミクロの視点から書かれた鉱物についての本で、宮沢賢治について書かれたのは、最初の9頁だけ。
にもかかわらず、この本が魅力的で、美しいのは、鉱物(ミネラル)に対する子供みたいな情熱と温かい眼差しに貫かれているからではないでしょうか。ミケルアンジェロから平賀源内まで、古今東西の作家や芸術家との鉱物との関り合いを石を中心に描きながら、誕生石や砂漠のバラの謎など、興味をひかれる不思議な石にまつわる物語を付け加えることを忘れない。
しかしながら、分量が少ないとはいえ、この本の白眉は宮沢賢治について書かれた二編でしょう。
地質学者としての宮沢賢治の作品にスポットをあてたのは、この人の功績ではないでしょうか。たしかに、宮城一男に『宮沢賢治の生涯 石と土への夢』がありますが、これは地質学に関係者の雑談を集めたもので、「石の大学士」を目指していた宮沢賢治の姿を垣間見る資料としては一級なのでしょうが、作品に新たな視点を供するまでにはいたりません。
指摘されてみれば、「この砂は、みんな水晶だ。中で小さな火が燃えている」(『銀河鉄道』)や、オパールを「それはまるで赤や緑や種種の火が烈しく戦争をして、光の血が流れたり......」とか、鉱物をこれほど多用していたことに迂闊にも気がつきませんでした。たんなる文飾ではなく、実際に石を知って使うから、デビアスなんかの宝石よりも、強くまばゆく文章が輝いているのだと思いました。
宮沢賢治についての鑑賞を深めてくれたのは、自意識の問題にきわめて誠実にむきあった三浦雅士の『私という現象』(講談社学芸文庫)以来で、楽しめました。
『ベルカ、吠えないのか?』古川日出男著・文藝春秋=△
初古川日出男。
知性をまったく感じさせない題辞に幻滅しながら読みすすめると、本編に突入する前に再度、同じようなエピグラフに激突して、撃沈。
日をあらためて、再トライ。
想像していたのとは違い、しっかりとした文章で、読ませてくれる。アクションシーンがうまくて夢中になるも、散発的。作品世界を広げるために、実際の犬の世界紀行に突入したのが、運の尽きか。もっと長く書くか、もしくはしぼるか、いずれにせよ、こうした物語を書くには中途半端な長さのように思う。タイトルは良し。
著者略歴を読み、『アラビアの夜の種族』を買う気になる。
『ヘルバウンド・ハート』クライブ・バーカー著・宮脇孝雄訳・集英社文庫
「ル・マルシャンの箱」という、漆塗りの黒い六面体のパズル・ボックスがあった。このパズルを解くと、たちどころに快楽を極めた歓楽宮への扉がひらけるという。淫魔が巣食う恍惚世界への扉が。
その歓楽宮への地図は、他に何枚かあり、その一枚に神学者の暗号で書かれたヴァチカンの古文書保管庫に納められた図面や、サド公爵がバスティーユの監獄で『ソドムの百二十日』を書くための紙を得るために看守と交換した折紙細工の指南書という体裁をとった地図があった。「ル・マルシャンの箱」もこの地図の一枚で、「歌う鳥」を作ったことで知られる希代の細工師、ル・マルシャンが地図をオルゴールの中に封じ込めた。複雑に入り組んだ仕掛けは、一生いじりつづけてもまず解き明かせないだろうといわれていた。
フランクは、あるきっかけから、このパズルボックスの入り口をつかむと、だしぬけに頭の中から鐘の音のようなものが鳴り響きはじめる。歓喜に打ち震えるフランクの前にあらわれたのは、全身を釘でうちつけた男や、体中をひきさき腐臭をただよわせる女ら、四人の魔道士だった。
四人の魔道士は、呼び出した人間、フランクにたずねた。
お前が求めるものはなんだ、と。
フランクは、快楽とこたえると、魔道士たちは笑って、では快楽を与えてやろう、といった。
途端に、フランクの感覚が限界を超えて開放され、生きたまま肉片にされて、自分の部屋の壁の中に閉じ込められてしまう。
フランクが現世に戻るために必要なのは、人間の血と肉である。自分の弟の嫁、ジュリアを誘惑し、バーで誘惑した男を何人も殺していく。フランクの部屋で流された、血と肉がすなわち彼の身体の養分となり、腐敗過程の逆まわしフィルムのように、フランクは、血と肉を取り戻していく。
狂気とともに。
本書は、映画「ヘル・レイザー」の原作で、ただし、ノベライズではない。
クライブ・パーカーはジョン・レノンの同窓生。他に世界幻想文学大賞を受賞した『血の本』シリーズがある。
『腐女子彼女。』ぺんたぶ著・エンターブレイン
不覚にも面白いと思ってしまった。ので、書きます。腐女子彼女の生態を、オタク彼氏が観察したブログ本。
友人A「そういえばなんで郵便局といい、配達系の車は赤いんだろ?」
友人B「目立つからじゃない?」
腐女子彼女「赤いと3倍早い。」
や、
「ウソだと言ってよバーニィ」(『機動戦士ガンダム 0080 ポケットの中の戦争』)
など、随所に引用された台詞が、出典の知識の有無をとわず、読者をおかしみの世界へといざなう、一種の前衛小説を読むような味わいがある。赤いと、はシャアザク(真っ赤に塗装されたシャア専用ザク)のこと。
いつだったか、S氏と、野球漫画『大きく振りかぶって』の話をしていたら、
「あれが腐女子をターゲットにしているのはご存知ですか?」
とたずねられたので、当然のように
「知っています」
と返事をしたものの、腐女子という単語すら知らず、いつの日か勉強しようと、本書を手にとりました。早速、明日売りにいきますが、もし下記のキーワードに興味があるかたは、どうぞ。
キーワード
少女漫画『ラブセレブ』新條まゆ
漫画『桜蘭高校ホスト部』
ゲーム『フェイト/ステイナイト』
小説『十ニ国記』
腐女子スポット「乙女ロード」
腐女子の単語入門篇
BL系 ボーイズラブ
種 『機動戦士ガンダムSEED』
受け(これは書きません)
『知的遊戯』はらたいら著・角川文庫
まえがきがいい。
まえがきというよりか実はアフォリズムなのだけれど、P・フォーク主演の映画「残された日々」の墓碑銘からはじまる。映画は、医者からあと一年の命と宣告された男と女の物語。女性のほうが先に死んでしまい、残された男が、彼女のお墓をたずねると、墓碑銘にはこう刻まれていた。
「こんにちはグリフィー きっと来てくれると思っていたわ」
辞世の句なんか詠んでる場合じゃない。
昨今の、といっても、あのはらたいらさんが語るのだから、一昔前の話ではあるけれども、女性には、三つのないものがあるという。いわく、「帯が結べない、恥じらいがない、そして星を知らない。」
二つ目まではいいとして、最後の、星を知らない、というのは、夢がない、ロマンがない、またその余裕もないということ。
「人類がこの世に誕生してから、現在に至るまでの人数を数えると、一千億人だという。ある学者が、星の数を数えたら、なんと一千億個。星は一人に一個ずつある計算になる。」
別にどうということもない話だけれど、ちょっとロマンがありませんか。
はらたいらさんがいう、知的遊戯とは、すなわち感性のことで、たとえば、小学校一年生のこんなテストについて。
問題は、「雪が溶けたら、何になりますか?」
当然、正解は「水」である。
けれども、この中にひとりだけ、こう書いた子どもがいた。
「春」。
あなたが担任の先生だとしたら、どう採点しますか。
この問題をつくった担任の先生は、しっかり×にし、はらたいらさんはこういいました。
「素晴しい、天才の発想だ。」
「子供は天才である。」
はらたいらさんに3000点!
演劇フォトドキュメント『そして、幕があがる ~劇団M.O.P.と共に』林 建次・長崎出版
劇団M.O.P.は、劇作家・演出家のマキノノゾミが主宰する劇団。本書は、そのうちの公演作品『エンジェル・アイズ』『阿片と拳銃』『リボルバー』に密着したドキュメンタリー写真集。この写真集が特異なのは、その内容で、
「本番中、舞台袖でじっと出番を待つ役者たちの顔など、わたしだってあまり見たことはない。普通ぶっとばされるからね、そんなものを撮っていれば。」(マキノノゾミ)
と言っているように、役者が舞台に出る、その直前の表情をつぶさに捉え、オフからオンに、スイッチが入る瞬間をありえない視点から見事に切り取っている。 膨大な数の写真をめくっていると、まるで実際の舞台を目の前にしているような緊張感に息がつまる。
本書の文章と制作を手がけた伊藤史織さんから、この本が、劇団M.O.P.の観客だけでなく、これから演劇をはじめようとする人たちに開かれたものでありたい、というお話を伺う。
劇団M.O.P.は、2010年の公演をもって解散ということが決定している。学生演劇から出発し、関西学生演劇ムーブメントの中心的劇団として活躍して、四半世紀。
「最後に風呂敷のたたみ方をきちんと見せようと思う。小劇団のお手本になるような終わり方をしたい。」(マキノノゾミ)
どんな終わり方をするのだろうか。大団円をむかえたことがないだけに、興味が尽きない。
本書の制作には、影山くんをはじめ、フルタ丸の星野くんなど、見慣れた顔ぶれが名を連ねている。お近くの書店で、どうぞ。
本日発売です。