『荒地の恋』ねじめ正一著・文藝春秋
無言でガッツポーズをする。
シャワーを頭にザアザアかぶりながらも、興奮がさめない。ずっと狙いをつけていた本をやっと買って、そして、それが想像以上に面白かった。これ以上のない幸せである。
タイトルにある、『荒地』というのは、コウヤではなくて、アレチ、と読む。日本の詩の流れをかえた、エポックメイキングな同人誌で、相互悪口集団という、洗練された言葉をつかいこなすものにのみあたえられる名誉なあだ名があった。
「『荒地』の同人の悪口好きには定評がある。何人かで電車に乗り、そこにいない人間の悪口をワイワイ言っている。駅に着き一人が降りる。とたんに今降りた一人の悪口が始まる。次の駅に着き、また一人が降りる。残った人間はたちまち今降りたばかりの一人の悪口で盛り上がる。その次の駅でも同じことがあり、そのまた次の駅でも、という風につづいてとうとう二人になった。次の駅で二人のうちの一人が降りた。残ったのは一人だ。これでもう悪口は言えないだろうと思った矢先、その一人はおもむろに近くの乗客をつかまえて「あなた、今降りたあの男ねえ」」
悪口も、ここまで来ると、落語の世界である。
本書は、詩人であり、作家でもある、ねじめ正一が描いた、『荒地』の詩人たちの物語。
東京の鮎川信夫と神戸の中桐、遠く離れた二人の文通からはじまり、エリオットの詩から名づけられた同人詩『荒地』。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」とうたった詩人・田村隆一や、ご存じ吉本隆明など、綺羅星のごとく才能が蝟集し、『荒地』という言葉があたかも反語のように、現代詩にゆたかな収穫をもたらした。
本書は、同人のなかの詩人・北村太郎を中心に描く。高校時代からの親友・田村隆一の妻・明子と北村太郎が恋に落ちたとき、いみじくも寡作の詩人・北村太郎は詩の本質と直面する。
詩人・ねじめ正一にしか紡ぐことのできない詩人たちの物語。
『日和下駄 一名 東京散策記』永井荷風著・講談社文芸文庫
「東京」について書かれた本の中に、必ずといって登場するのが、永井荷風の『濹東綺譚』と本書である。大体引用されるのが、序の部分で、
「見ずや木造の今戸橋は蚤くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんと(原文ママ)にかためられて再び露草の花を見ず。桜田御門外また芝赤羽橋向の閑地には土木の工事今将に興らんとするにあらずや。」
多いのが、本書が描かれたのが大正3年であり、既にその時点からもう、東京市内の勝景が破戒されている、という指摘と、関東大震災前に残っていた江戸の風景の発見、である。
昭和末期生まれの地方出身者には、正直、何の実感も持てないのだけれど、大正生まれ、昭和一ケタ生まれの作家には、特にその思いが強いようで、ノスタルジーが強く、中には、わき道にそれてノスタルジーとは何かという語源的意味にまで突入してしまう本もある。
ただし、小林信彦が何かに書いていたように、生まれ故郷について書く理由などは必要ない、のである。
永井荷風の『日和下駄』は、その点興味深くもあり、
「わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若くはないと言うと、友は笑って、花のいまだ開かない時に看て、又花の既に散ってしまった後来たり看るのは、杜●川が緑葉成陰子満枝(注:杜牧という中国の地方官吏が読んだ、残念ではあるが、目出度くもある的な詩)の歎きにも似ている。」
など自らのシニックなところを冷めた視点で描写してみたりと、遊び心も尽きない。一行一行の文章も切れ味するどく、
「坂は即ち平地に生じた波瀾である。」
は、もはやアフォリズムである。中でもいいなあと思うのが荷風独特の路地への視線。
「路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明には描き出されていない。どこから這入って何処へ抜けられるか、或は何処へも抜けられず行止りになっているものか否か、それは蓋し其の路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。」
のである。
『ニール・サイモン戯曲集 Ⅳ』早川書房
「思い出のブライトン・ビーチ」では作家志望の少年、日本と独逸との戦争のための徴兵で軍事基地で過ごす閉塞した空間を描いた「ビロクシー・ブルース」、ラジオのコント台本で、念願の作家への道を歩みだした「ブロードウェイ・バウンド」。
本書は、『第二章』以来語られてこなかったニール・サイモンの半自伝作品、三作をおさめ、この三作は、頭文字をとってBB三部作ともいわれる。
この三作を貫通して登場するのは、ニール・サイモンとおぼしき、常に「回想録」を書き続けているユジーン。”最低の状況における人間の尊厳”というテーマをつきつめていくその姿勢は、
「……軍隊にいる時、教わったもんです。戦闘の時、助けてくれと泣き叫ぶやつは放っておけ……何の音も立てないやつのそばに行ってやれ。そいつこそ本当に重傷なんだ……」(「ブロードウェイ・バウンド」)
という台詞だけではなくて、一作、一作、作を重ねるごとに抜き身のような鋭さを放ち、いつものようにジョークに頼らず、ラブロマンスも書かず、実在の映画スター、ジョージ・ラフトとまるで映画みたいな一日を過ごした母、ケートに思い出話をせがんだユジーンが、その一日の出来のよさに、思わずこうもらすと、
ユジーン (中略)映画はハッピーエンドだよ。
ケート ……映画はまだ終わってないわ。(「ブロードウェイ・バウンド」)
と、家庭のなかの終わりのない不和を予見する台詞をこぼして、ウェルメイドなハッピーエンドをも、正面から否定する、作品そのものに現れている。
一冊の本としては、まさに完璧ともいえる本書は、しかしながら、三巻とまったくおなじ、「思い出のブライトン・ビーチ」をそのまま収録するという厚顔無恥な編集方法によって、戯曲集として完全に失敗している。誤植すらせずに、解説すら同じ文章を収録する編集というのは、編集とはいわない。良識を疑う。
『ニール・サイモン戯曲集 Ⅲ』早川書房
ニール・サイモンを読み返す。
学生時代に図書館で通読してから、約6年近くがすぎた。自伝の傑作、『書いては書き直し』、『第二幕』(ともに早川書房)を熱狂的に読み終えてから、読み直すのははじめてだから、読むのが少し不安だったけれど(読み直すと面白さが半減することがおおい)、6年前に読み終えたときより、ニール・サイモンの魅力が頁の余白からあふれ出してきて、じっとしていられなくなって夜の阿佐ヶ谷を歩く。
残念ながら、本書の「浮気の終着駅」、「カリフォルニア・スイート」の魅力は僕にはわからない。戯曲は会話を読むものだが、他人のおしゃべりをずっと聴いている気がして、読み物として読むことができなかった。
「映画に出たい!」も冒頭読み進めているうちは、いやな予感が終始つきまとうも、中盤から一転し、ニール・サイモンの世界にひきずりこまれて、のめりこむ。「思い出のブライトン・ビーチ」しかり、”最低の状況における人間の尊厳”という重いテーマを、宝石のようなユーモアにちりばめられた台本を渡された役者は一体どんな顔をして、稽古をはじめるのだろう。
『僕にはわからない』中島らも著・双葉文庫
時間つぶしのつもりで読みはじめたら、とまらなくなってしまった。
『ガダラの豚』を書いていた頃のエッセイ集で、詐欺の手口に超能力、大好きなホラー映画やプロレスについて書いてある。つまり、いつものエッセイだと思っていたら、気がついたら、目の前に中島らもが立っていた。
本書に
「人は死ぬとどうなるのか」
という題のエッセイがあって、それは、
「丹波哲郎氏の映画「大霊界」を不覚にも見てしまった。」
という一文からはじまる。その冗談みたいな書き出しがいつのまにか、
「死後の世界について、「嘘でもいいから」教えてほしい、というのは人間の「業」みたいなものなのだろう。この世の生き物の中で、自分が「生きている」ということを自覚できるのは人間だけであって、「生きている」ことの反対の概念として「死んでいる」状態というものが想定される。その「死んでいる状態」についてさまざまな憶測が生まれてきて、そこに宗教の成り立つ地平があるわけだが、考えてみるとこれは人間のロジックや言語による思考が生み出す錯覚のひとつではないだろうか」
という、死後の世界に対する鋭い問題提起にぎらりとかわり、「死」という状態が、想像力によってのみ想定され得る架空の概念でしかないことを詳らかにしてゆく。そもそも、「生きている」の対立概念として「死」を考えるからおかしくなるのであって、「生きていない」状態について考えてみると、少しはっきりしてくるのではないのかという。
例えば、ジョルジュ・バタイユに、「連続」と「不連続」という考え方がある。これを、人間の、個体の死について、あてはめてみると、「連続」が、人類の種としての生命の縦軸の連なりとすれば、「不連続」が各固体の死によって起こる断ち切れ、である。
この「連続」と「不連続」という概念は何故、人間が死ぬのか、という問いかけにもなっていて、人間の個としての死の背景にこそ、人間の種としての生存の構造が隠されている。つまり、人間の個々の死という「不連続」が、全体の種としての「連続」を支えているのだ、と。
それにとどまらず、
「たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を越えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。
(中略)僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。(中略)僕は個であると同時に種の一部である。一にして全であり、全てであると同時に何者でもない」
という。
重複して恐縮だが、
「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。」
は、何度読んでもいいと思う。ここまで強靭な「生の哲学」は他にはない。
『アマニタ・パンセリナ』中島らも著・集英社
中島らものドラッグ・レポート。「ガマすい」を研究してみたり、ペヨーテ(幻覚サボテン)を輪切りにして食べてみたり、やっぱり咳止めシロップやアルコールが登場したり、ステロイドから、らもが大好きなプロレスに突入したり、今まで書いてきたドラッグについて、まとめて書き直した感じは否めない。それでも読んでしまうのはなぜか?
山本夏彦のエッセイに、こんなくだりがある。
若い新しい読者が私の古い友にすすめられてわが旧著を四、五冊熱中して読んで言うには「なんだこの人、同じことばかり言っている」。それを聞いた友は「寄せては返す波の音だと思え」と言った。(『一寸さきはヤミがいい』新潮社)
中島らものエッセイもほとんどこの状態で、いきつもどりつしながら、「寄せては返す波の音」である。
らもの性質が悪いのは、エッセイだけではなくて、小説でも同じことをやる。『ガダラの豚』(この小説を評して、「僕なら半分で書ける」と書いた脳みそが腐った審査員がいたらしいが、この小説は二十世紀の大傑作。未読のかたは是非)で使ったプロットを、『空のオルゴール』で使ったりするのである。
それでも飽きずに読んでしまうのは、それが中島らもの文章だからである。
アマニタ・パンセリナは、毒キノコ「テングダケ」の学名。
このエッセイを下敷き?に、中島らもの小説のなかでもっとも美しい純文学小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』が書かれた。
『牢屋でやせるダイエット』中島らも著・青春出版社
中島らもの独房エッセイ集。
かつて自分で書いた「教養とは、一人で時間を潰すことのできる能力である」という言葉に期せずして、試されることになった中島らもは、作詞をしたり、刑務官に反抗して「フロスト」(風呂ストライキ)を決行したり、「絶対」にやってはいけない規則に反抗してみたり、看護婦を口説いてみたり、人間の存在と自由について瞑想したり、オナニーをしたり、と必死になってひとりで遊ぶ方法を考えて実行する。やはり並みのうつ病患者ではない。
中島らもが圧倒的に魅力的なのは、これは宮崎駿とも通底するところなのだが、救いのないものは書かないという態度だと思う。ときどきむちゃくちゃ恥ずかしいことを平気で書くけれども、思想を否定し、宗教をやかましいと一括し、たとえ、この世で生きることが無であるとしても、「光に賭ける」と言い切る潔さは、読んでいて嬉しい。たった22日の拘置生活でここまで書ける作家はいない。
『心が雨漏りする日には』中島らも著・青春出版社
タイトル通り、鬱と躁にゆれる日々のエッセイ。中島らもは、自他ともに認める薬中で、僕は家が近所だったこともあり、作家としてより、アル中で、薬中のひとである認識のほうが強かった。
らもと同じ町内にすんでいたC君とあそぶときは、らも家を通過せねばらなず、早足で歩いた。なにか怖かったのである。
薬でお茶漬けすることができるほどの薬と酒を飲み続けて、無事であるはずがない。十年間ちかく失禁に苦しめられたあとは、いきなり道で昏倒するようになった。意識を失って、突然ワンタンメンのなかにダイブしたり、階段を歩いている途中、いきなり手足の自由がきかなくなって、生垣につっこんだり、ついにはナルコレプシーもどきを発症したりと、死に方を知っているだけに読めば読むほど複雑な心境になる。
中島らもの本は全部読む作家リストに入っているので、どれだけ趣味のあわないものを書いていても、読了するつもりでいるのだが、やっぱり僕は、もっと生きて、自称「大っ嫌いなエンターテイメント小説」を書き続けてほしかった。
『宝石の裏側』内藤幹弘著・新潮新書
ティファニーのオープンハートというペンダントネックレスがある。店頭で買えば数万円。しかし、その原価はというと……。なんと、数十円! なのである。加工料を含めても、せいぜい300円あればつくれてしまう、という。
婚活中の喪男に宝飾品をみつがせたところで、原価がこうでは質屋がなんというかは目に見えている。紳士淑女におかれましては、何卒ご用心を。
しかし、本当に恐ろしいのは、ブランドものに限らず、宝石の、「ほとんどすべてが「整形美人」」である、という著者の指摘である。
ダイヤモンドは放射線照射で色を透明にし、真珠の大部分は調色がなされ、ルビーの赤は加熱処理。エメラルドにいたってはサラダ油で傷を隠し……、といった具合に枚挙にいとまがない。
結婚指輪は給料の3倍で、というのは戦後につくられた神話である。気分、といってもいいのかもしれない。もともと自然材料なのだから、値段はあってなきがごとし。これをまことしやかに高級品として巷に流布、喧伝したのは、まさにデ・ビアスの勝利というほかはない。
では、どうやって選べばいいか。
つまり、そういうことを織り込み済みで、気に入ったものを選べばいいのではないのか。孫引きで恐縮だけれども、世界のクロサワを袖にした女優・高峰秀子に「私の結婚指輪」というエッセイがある。
「私は結婚指輪だけは夫に買ってほしいと思った。当時、安月給だった夫は何処で工面したか、ケシ粒ほどのダイヤモンドが幾つか並んだ結婚指輪を買ってくれた。それはささやかな物であったが、私はかえって、分不相応に背伸びしない彼の性格が分かって嬉しかった。結婚してから十九年の月日がたって、夫はその間にダイヤモンドをケシ粒から米粒に、米粒から小豆粒の大きさにしてくれた。」
大きさではないといいたい。
物語なのだと。