『夜間飛行』サン=テグジュペリ著・堀口大學訳・新潮文庫

この本をはじめて読んだとき、なんと美しい世界があるものか、と息を呑んだ。

有視界飛行の時代である。嵐の中を飛ぶことは、目をつぶったまま車を運転するに等しい。暴風雨にまきこまれた主人公のパイロット、ファビアンの運命は、まさに絶体絶命、激突するかもしれないが、どこへでも着陸しようと最後の決心をし、たった一つしかない照明弾を投下すると、そこは海の上だった。

闇の底に閉ざされ、方角を見誤り、風に吹き流され、彼は針路をも見失っていた。燃料は、あと半時間分しかない。

それでも、ファビアンには、暗がりのなかでハンドルをしかと握り締めて戦い続け、自分の運を試すこともできた。が、彼はそうしなかった。それが陥穽だと知りながら、光を求めて身を焼く羽虫のように、彼は光明への渇仰に身を任せて星の光を求めて、思わず上がっていってしまう。

 

「彼は螺旋を描いて、しだいに、その開かれた井戸を上って行った。井戸は上って行く彼のあとから閉ざされていった。(中略)

 彼の驚きは極端だった、理由は、あまりの明るさに、めまぐるしいほどだったので。数秒間、彼は目を閉じなければならなかった。夜、雲が、まぶしいほど光るなぞとは、これまでの彼には信じ得ないことだった。ところが、満月ともろもろの星座とが、今このように雲を輝かしい波のごときものにしているのだ。

 浮び上がったその瞬間、機はいきなり、静けさの世界に入り込んでいた。機を傾斜させるうねりなぞ一つもなかった。堰を乗越えた舟のように、機はいま静かな水に浮かんでいた。(中略)

 ファビアンは不思議な天体の外圏に達したのだと思った、なぜかというに、彼の両手も、着衣も、機翼も、すべてが光を放ち始めたので。(中略)

 彼の下にある雲は、月から受ける雪のような光をことごとく反射していた。塔のように高い左右の雲からも同じく光が反射していた。あたり一面を満たして、光の牛乳が流れていた、そしてその中で、機がゆあみをしていた。」

 

堀口大學の文章がいい。一文一文が一篇の詩である。

 

「見たまえ、恋愛にニの足を踏ませる彼のあの醜さがなんと美しいことか」

「愛する、ただひたすらに愛するということは、なんという行き詰まりだろう!」

「君が追いかけているものは、やがては君自身の中に滅びてしまう」

 

時代錯誤とは言わせない。

無論、それだけではなくて、「何もかも、すべてことごとく職業化している人生を、その楽屋裏から覗いている」ようなサン=テグジュペリの視点。あざなえる縄のように交差する生と死の隙間から見える、人間の土地、束の間の真実。

「人間の生命には価値はないかもしれない。僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?」

深い沈黙と、屹立した孤独。

サン=テグジュペリにとって、飛行機は、決して目的ではなく、手段である。

言葉をつむぐための。

 

「会社は日ごろから口癖のように言っている、郵便物は大切だ、郵便物は生命以上に大切だと。そうかもしれない。三万人の恋人たちに生きがいを与えるものだもの……。恋人たちよ、もうしばらく我慢したまえ! 夕明りの中を、諸君の方へ、いま飛んでいます。」

 

かつて郵便配達に、生命をかけていた時代があった。

『パタゴニア 』ブルース・チャトウィン著・芹沢真理子訳・世界文学全集Ⅱ-08 河出書房新社

『パタゴニア』を読んで気がつくのは、まずもってその、読みにくさ、である。

編者である池澤夏樹も「書きかたの奔放さ」を指摘しているように、チャトウィンが実際に旅をし歩いたパタゴニアと、場所や地名、人物、墓地、遺跡、牧場、写真、電話帳などその場にあったモノから喚起される洪水のようなイメージを横糸として編み合わされた布が、『パタゴニア』といえるのかもしれない。

チャトウィンの資質のひとつとして、モノへの視線がある。

チャトウィンは、18歳の時に、オークション・ハウス(競売会社)サザビーズの運搬係として入社し、絵や彫刻、工芸品などを運んでいるうちに、自分が美を見分ける力があることに気がつき、周囲もそれを認めた。実際に、絵画の真贋を鑑定する能力があり、あっという間に印象派の絵画の専門家になった。

画家のジョルジュ・ブラックが存命時に、チャトウィンは、ジョルジュ本人が書いたとされる絵の鑑定を依頼するために、写真をもって訪ねると、

「私はもう目が弱っているのだが、これは偽物だときみは思うかね?」

「そう思います」とチャトウィンが答えると、ブラックは写真の裏に

「それなら偽物だ」とその旨を書いたという。

四十年間行方不明になっていたゴーギャンの「タヒチの女と少年」を見つけたこともあった。

一種の神童だったのだろう。

チャトウィンの興味は、まずモノへの視線からはじまる。

 

「祖母の家の食堂にガラス張りの飾り棚があった。飾り棚の中には一片の皮があった。それはほんの小さな切れ端で、ぶ厚くごわごわしており、赤茶色の固い毛がくっついていた。皮には錆びたピンでカードが留めてあった。カードには色あせた黒インクで何か書いてあったが、それを読むには私は幼なすぎた。

「あれなあに?」

「プロントサウルスの皮よ」

 母は先史時代の動物の名前をふたつ知っていた。プロントサウルスとマンモスだ。それがマンモスでないことを彼女は知っていた。マンモスはシベリアにいたのだから。」

 

『パタゴニア』の書き出しであるが、このプロントサウルスは、世界の果て、南米の一地方のパタゴニアに棲んでいた。プロントサウルス(やがてこれはミロドン、すなわちオオナマケモノであることがわかる)は、チャトウィンの祖母のいとこ、船乗りのチャーリー・ミルワードに発見される。

チャトウィンの興味は、まずモノからはじまり、モノが土地に、土地が人を喚起させる。一つのエピソードの中に、時空をこえた大量のエピソードが大量に象嵌されているため、その想像力の展開の速度に、ついていけなくなってしまうのだろう。

この紀行文学と呼ぶには、いささか親しみにくい文章が、イギリスの紀行文学の中でも賞揚されるのは、それは想像力の展開がもたらす、圧倒的な美しさ、である。

 

「ブエノスアイレスの歴史は電話帳を見ればわかる。ポンペイ・ロマノフ、エミリオ・ロンメル、クレスピナ・D・Z・デ・ロセ、ラディスラオ・ラディヴィル、そしてエリザベータ・マルタ・カルマン・ド・ロートシルト――Rの項から無作為に選んだ五つの名前が、レースのカーテン越しに、国外追放や幻滅、見果てぬ夢を物語っている。」

 

幻の共和国、アラウカニアの王になろうとした男、無法者ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの後日談や、ヤガン語の辞書をつくったトーマス・ブリッジズ、チャールズ・ダーウィン、果ては、コールリッジの『老水夫行』の元になった難破の記録、マゼランの航海から、シェイクスピアの戯曲の検証、南極探検家のサー・アーネスト・シャクルトンの無頼な姿まで、縦横無尽に描かれる。

池澤夏樹が書いているように、ブルース・チャトウィンは、作品を通じて「人はなぜ移動するか、ある種の人々はなぜ異境にある時にもっとも家(自分の国、土地)にいるという安心感を得られるのか」という問いを生涯をかけて考え続けた。 

アリという名のペルシャ人に「君の宗教は何ですか」と訪ねられると、こう答えた。

 

「今朝は、とくに宗教を持っていません。僕の神様は歩く人の神様なんです。たっぷりと歩いたら、たぶんほかの神様は必要ないでしょう」

 

『パタゴニア』に登場するのは、すべて移動した人々である。 

 

『テストステロン 愛と暴力のホルモン』ジェイムズ・M・ダブス+メアリー・G・ダブス著・青土社

テストステロンは簡単にいうと男性ホルモンである。ホルモン関係の本を書いている人が必ず参考文献の一冊にあげているのが本書。

 

テストステロンは、聖書の言葉でいうところの「物言わぬ獣」、つまり動物に少なからぬ影響を与えている。たとえば、マウスにテストステロンを注射すると見知らぬ場所におびえなくなり、牛に注射するとその牛は彼らの集団の中で指導者としてのポジションを獲得する。テストステロンを注射した雄鳥は、より多く歌い、より広い面積を飛びまわり、より多く戦い、最後にはより多くの傷をおっている。雄のトカゲも同様で、より多く、戦い、動き回り、すなわち、人目につくところにあらわれやすくなる。これらが指し示しているのは、高レベルのテストステロンを持つ個体は、子孫を持つ前に死ぬことになりやすい、ということである。

多くの動物で、去勢された雄はより長生きする。このことは人間にも当然あてはまる。正常レベルのテストステロンでも危険にさらされることになりやすいが、大部分の男は、長生きする手段として去勢されることはお断りだという著者の意見は間違っていない。

テストステロンは、ラジオイムノアッセイ(同位元素標識免疫定量法、通称RIA)で測定する。いままでは、血液中のテストステロンしか測定できなかったのだが、唾液で代用できることが判明し、研究が活発になった。

この研究で明らかになったことのひとつに、高テストステロン・レベルの人間と、低テストステロン・レベルの人間の趣向の違いがある。著者のとった統計によれば、裁判弁護士、ニューヨークのタクシー運転手、探検家、マサイ・マラの密猟者、旅行家、フットボール選手、セックス産業の経営者などは、高テストステロン保持者が多く、一方で、会社のおかかえ弁護士、会計士、コンピューター・プログラマー、聖職者、企業管理職、などは低い傾向がある。

テストステロンは人間に、エネルギーや、力や、セックスに対する関心、空間的・機械能力、単線的な精神集中力やパナシュ(威風)をもたらす。すなわち、高テストステロンレベルの持ち主は、忠実で献身的なパートナーというよりは、良い競争者、掠奪者になる。これらは、乱戦にたずさわる野生的な職業に有用で、一方の、堅実さ、信頼性、親身さ、友好性、誠実さ、思慮深さは、低テストステロンと結びつき、現代アメリカにおいて、地位の高い職業における成功と結びついている。

全体として、「ブルーカラー」は「ホワイトカラー」よりテストステロンが約8パーセント高く、中でも、予想外に失業者がもっとも数値が高い。(この理由のひとつに、長い期間同じ職業に留まることができなかったを挙げている)

職業でみると、聖職者がテストステロンがもっとも低く、フットボール選手よりも、俳優がもっとも高い。この理由は、聖職者が安定した組織のなかで継続した仕事が得られるのに対し、俳優は、長期にわたる安定した仕事を得ることがなく、彼らの名声が最近の舞台になることだという。俳優たちは、新しい仕事のたびに演出家を納得させなければならず、なおかつ観客の承認を得なければならない。俳優は自分の演技を誇りとするが、聖職者は神のおかげとする。俳優はスターになることを望み、聖職者は人を助けることを望む。

現代において、演技することと戦うことは密接に結びついている。フィリピンでダグラス・マッカーサーにつかえたアイゼンハワーは後日、「私は彼の下で、七年間演技術を学んだ」という。戦いは支配にいたる競争の核であり、この核を取りかこむものがパナシュである。パナシュとは、他人の注目と尊敬を得るのに役立つ外観と態度のことで、かいつまんでいうと、それらしく見えるようにすること、であろう。支配する人々は、支配的なように見え、聞こえるのだ。

虚栄心は高テストステロンを伴う。雄の動物は、毛を逆立て、闊歩し、尾羽根を広げるなどして、競争相手を威嚇し、通路を開かせ、異性に印象づける。ヘミングウェイは、勇気を定義して「圧力の下での気品」といったように、シラノ・ド・ベルジュラックは、気迫とサーベルと帽子の羽根飾りでパナシュを演出し、詩を唱えながら決闘した。

 

人類学者のヘレン・フィッシャーは、女性型の思考を「網目思考」、男性型の思考を「段階思考」と呼んで区分けした。「網目思考」とは、一時に多くの物事に注意を払う複雑な思考やいきいきした想像力をさし、「段階思考」は、視野の狭さに伴う強い集中力をさす。「段階思考」は迅速な行動を、「網目思考」は広い視野をもたらす。

単純な思考と行為は、貧弱な言語行為を伴い、語彙が豊かなほど迅速な行為ではなく、複雑な思考を可能にする。テストステロンには二つの特徴があり、一つは彼らの集中した注意力であり、もう一つは、彼らの迅速な行動である。テストステロンは集中力を増大させ、注意力が集中すると、人々は他の人々がしりごみしているのに気がつかず、危険をおかす。つまり、タフガイには複雑な思考は伴わず、哲学者の代表的な行動はサルトルの軟弱な投石に留まるのであろう。火事の中に救助のために飛び込むのは、複雑な思考ではなく、圧倒的な目の前への集中力である。

 

アトランタ消防局の第四消防署は、緊急事態用の特別な任務をまかされていた。改造中の古い綿糸工場で大火災が発生した。火の海の中に、クレーンの運転者がひとり取り残された。彼はクレーンの先端に難を逃れたが、いつ煙にまかれるかは神のみぞ知る、といった具合で、クレーンのタワーが熱にあとどれぐらい耐えられるかは何の保証もない。彼に残された選択肢は、ヘリコプターによる救助だった。

第四消防署では救助の志願者が殺到したが、マット・モーズレーが最初に身支度を整えたので、その資格を得た。ヘリコプターの操縦者は、気まぐれな乱気流をおかして、モーズレーをクレーンの先におろすまで、なんとか熱と煙に耐えていた。モーズレーは、救出すべき相手のもとに、なんとかたどり着くと、その男に言った。

「あんたのボスがおれをよこしたんだ。ボスがな、あんたは今日は早退けしていいとよ」。

ザ・タフガイである。

 

テストステロンの高い男性には、いささか悲しむべき見方がある。乱暴で、無慈悲で、セックスと支配に心を奪われ、強迫観念の域にも達するほど、ひたむきである。にもかかわらず、強い社会的な力があれば、ホルモンに関らず、思慮深くなることができる。そういう男性は、悪においてと同じように善においてぬきんでることができ、たいていの人は家族を養うために良く働き、モーズレーのように他人の命を救うために自分の命の危険をおかす。 

この逸話をどう感じるか、その視座が、あるいはあなたのテストステロンのリトマス試験紙なのかもしれない。

 

『アフターマン 人類滅亡後の地球を支配する動物世界』ドゥーガル・ディクソン著・今泉吉典監訳・ダイヤモンド社

5000万年後、人類が姿を消した世界には、一体どんな動物がくらしているのだろう。ディクソンは、現在の動物がたどってきた進化の過程をふまえて、未来の動物を想像した。

真剣に。

たとえば、系統が同じなら、極地近くに住む動物のほうが大きいというベルクマンの法則、まったく無害な動物が毒々しい装いをして襲撃者をやりすごすベーツ擬態など、適応、進化の収斂、そして放散という基本原理をその想像力にとりこむだけでなく、「自然は空白を嫌う」という物理の世界の法則にのっとって、人間によって占められていた生態的地位が、空白化した世界を、爆発的な繁殖から押し出される進化によって、新しい種が現れ、新しい生態系をつくりだすことを活き活きと描いている。

ハワイ諸島は、5000万年後、マントル、すなわち地殻運動によって、火山列島が生まれる。新しい島ができると、初めにやってくる脊椎動物は、ふつう鳥である。しかし、このバタヴィア列島にやってきたのはコウモリで、ガラパゴス島のフィンチよろしく、5000万年後、ハワイ諸島は、コウモリの島と化す。

耳と鼻葉を色鮮やかな花弁に擬態させたフローアー、後肢が肩越しに突き出して、手そのものの働きをし、哺乳類であろうと爬虫類であろうと、見境なく恐ろしい歯と鉤爪で襲い喰らう、森の中を金切り声を上げて徘徊するナイト・ストーカーなど、見るも恐ろしいコウモリ族が跋扈している。

背中に、交尾の際に精子を出すこと以外に生物としての機能がない雄をのせている、奇妙な鳥、メイトリアルク・ティナムや、尻尾に多数の剛毛を芯にした、落下傘のようなものをもった、小さなトガリネズミのような大きさのパラシュリュウなど、頁をめくるのが愉しい、奇想の図譜。

カラーのイラストが嬉しい。 

『鼻行類』、『平行植物』とともに、生物学の三大奇書と言われる。

序文は、動物学の泰斗、デズモンド・モリス。

興味本位にかかれた未来小説やSF漫画の奇怪な動物とは一線を画したリアリティは、まさに想像を絶する。

 

『青少年のための自殺学入門』寺山修司著・土曜美術社

中島らもが、生の、光の言葉を書き紡いだとしたならば、その反対に寺山修司がいる。

らもが、

 

「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。」

 

と書けば、寺山は、

 

「人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ」

 

という。寺山修司のアジテーションには、古本屋からの絶大な支持があって、水にぬれてしわしわになった本でさえ、稀少本なら4500円の値札を貼る。個人的にはちょっと信じられない。

本書は、まがまがしい装丁で、気持ちの弱い時に見つめていたら間違えて死んでしまいそうだ。山田花子の自殺直前日記だったかを彷彿とさせる。

自殺学入門は、「自殺機械の作り方」にはじまり、「上手な遺書の書き方」、動機、場所、「自殺のライセンス」、「心中のすすめ」、自殺の先達を紹介した「自殺紳士論」と得意のアフォリズム集に、死と家出にまつわるエッセイなどがコンパクトにまとめられている。

まず、自殺を、

 

「自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、そして聖なる一回性であり、快楽である」

 

と定義し、この意味で、三島由紀夫はもっとも見事に自殺を遂げた、先達である、と指摘する。

ここで、寺山が峻別したいのは、ブルジョア的な自殺と、”何者かに殺される”政治的他殺や事故死、他殺、病死などの、何かが欠乏しているために死ぬ、結果的な自殺、である。

自殺の価値を守るために、モンテーニュを援用してくるあたりが、ちょっと可笑しい。

詩人・谷川俊太郎は、寺山修司は自己を韜晦し続けてきた、と指摘したが、それは言葉そのままの意味で正しい。寺山修司の魅力は、アジテーションや思想にはなくて、多分、寺山修司が使う、言葉の屹立した美しさではないか。

本書の最後の章に「遺言」というエッセイがあって、「帰る」こと、について書いている。

 

「「帰る」ということは同じ場所にもう一度もどってくることだが、私はこの世に「同じ場所」があるなどとは、どうしても思えなかった。

 人生は一回きりなのだから、往ったきりなのだ、と私は思った。昨日の家と今日の家とは同じものではない。だから、昨日の家へ帰ろうとしたって、無理なことなのだ。昨日の家へ帰ろうとして道を辿る者は「今日の家」という新しい経験の中へ入りこんでゆくことにしかならないだろう」

 

ラングストンヒューズの詩を涵養しても、こういう言葉は生まれてこない。寺山修司の言葉は、勝手に行の中からはみ出して、一人で歩き出し、万巻の書の中を自由に歩いていく。

寺山修司の言葉は、死なない。 

 

『寺島町奇譚(全)』滝田ゆう著・ちくま文庫

寺島町というのは、現在の東向島で、旧・玉の井。私娼街である。

吉原のように公娼の集められていた「遊郭」ではなく、私娼の集まっていた私娼窟で、その店の名を、銘酒屋(めいしゅや)という。銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、街全体で、私娼を抱えて、売った。

滝田ゆうが『寺島町奇譚(全)』で描いたのは、戦前の玉の井の姿である。

玉の井というと、永井荷風の『濹東綺譚』がもっとも著名であるということに異論はないけれど、滝田ゆうとは視線が違う。滝田は、自分が生まれ育ち、空襲で焼き払われるまでの、玉の井の日常を、街を見上げる少年の目線と、類まれな記憶力で、紙の上に再現した。「ぬけられます」、「近道」、「安全道路」など、そこかしこの隘路の入り口にはりだされた看板やハート型にくりぬかれ娼婦の顔を見られるようにつくられた娼家の窓は、まさしく蜘蛛の巣を想起させるし、こうした人間の欲望がはきためて集められた奇観はもう再現できない。

銘酒屋で下働きをし、休憩の合間に、ほかほかの玄米パンを食べるのが何よりの楽しみだった下女のおふみが、おかみさんに「なにもお金の心配なんてすることないんだよ。おまえさえっそのきになればすぐにもぜいたくできるんだよ(原文ママ)」と誘惑されて娼妓になるまでを描いた「げんまいパンのホヤホヤ」。借金をしてまで玉の井通いを続ける男が、盲腸で入院した娼妓を見舞いに行く途中に借金取りにつかまってしまう過程を、塀の向こう側の出来事として音で描いた「玉の井界隈0番地」。あらしがきて町全体が、あたふたする姿を窓から「うへっすげっ」とあらしを楽しむ子供の目線で描いた「花あらしの頃」など、一日のはじまりが

 

「お父さんオハヨウゴザイマスお母さんオハヨウゴザイマスお婆ちゃんオハヨウゴザイマスお姉ちゃんオハヨウゴザイマス」

 

と正座し、頭をさげてあいさつすることからはじまる戦前の暮しと、玉の井の哀愁を画面の内外に活写している。

滝田ゆうの漫画の特徴のひとつに、ふきだしの中に描かれた、絵がある。それはたとえば、吉行淳之介が本書の解説に、

 

「石堂淑朗は、女の子がプラットホームにスーツケースを置いて悄然としている絵の吹出しに、蟹が描いてあるのをみて、

「この女は、いま都落ちをするストリッパーで、彼女は横這い状態にあるんだ」

と、ほかの人に説明していた、という。作者のつもりでは、畳の上に蟹を置くと、ガサゴソと横這いして、その音がわびしい感じである、といったところだそうだが。」

 

と書いているように、読者が勝手に考えて、読み間違う遊びに満ちてもいる。

滝田ゆうの線の温かさは、他の漫画の線とは一線を画しており、漫画家というよりは、ひとつのジャンルといっても過言ではない。長谷川町子と並んで、『のらくろ』の田河水泡の弟子のひとりで、さりげなく頁の端々に『のらくろ』を読んで笑うシーンがある。師匠と同じく、落語に深い造詣があり、落語を描いた作品ものこした。

映画『あがた森魚ややデラックス』竹藤佳世監督

玄関に封筒が落ちていた。郵便受けのような瀟洒なものはないから、必然的に郵便物はすべて地面に散らばってしまう。見覚えのない字だなあと思って、裏返すと竹藤さんだった。

竹藤さんは、映画監督で、実験映画のひとである。

自分が上京して、一番はじめにやろうと思ったことは、映画を撮ることだった。イメージ・フォーラムのワークショップに参加し、そこで8ミリ映画を、映画とは呼べないか、のようなものを撮った。僕は、映画も文学も遅咲きだったから、当然、ゴダールも知らなければ、デレク・ジャーマンも知らない。イメージ・フォーラムの扉に飾られている、寺山修司という文字をみて、誰だろうという感興すら湧かず、講師としてやってきた三池崇史監督に、ただただひたすら熱狂していた。たしか、「殺し屋1」 を撮られていたころのことだと思う。場違いなことこの上ない。

にもかかわらず、性懲りもなく、イメージフォーラムに置いてあったチラシに手を出した。映画の撮り方を教授していただけるだけでなく、実際に映画が撮れて、そして、その映画を映画館で上映してくれるという、「!」が三つぐらいつくぐらいの眉唾もののチラシだった。そのチラシに逆上した僕は、早速申し込み用紙に記入し、投函した。講座は、東中野の青林堂の二階を借りて行われ、その眉唾ものの企画を主宰していたのが、パウダールームというイメージフォーラムの卒業生を中心にした映像作家集団で、その代表が竹藤佳世さんだった。

よく考えると、そのとき僕ははじめて作家というものをはじめて目の前にして、知らぬうちに、どっぷり影響を受けていたのかもしれない。

映画を撮り終えるまでが映画ではなくて、映画をお客さんに観てもらうまで責任をもつことが、映画づくりであることを、この短い授業で教えていただいた。 今なお、何の関係もない僕にまで、お知らせを送り続けてくださるのは、一人でも多くの人に自分の作品をみてもらいたい、という作家としての矜持なのだと思う。

竹藤さんの「骨肉思考」「彼方此方」「殻家KARAYA」「カラコワシ」など、一連の作品は、DVD化されていないため、劇場でしか見られないが、もしチャンスがあれば是非ご覧ください。

「骨肉思考」は妊娠されていた当時の自分にカメラを向けることからはじめた半分ドキュメンタリーの映画である。もう7、8年前にみた映画だから、極めて曖昧模糊とした記憶でしかないが、胎内の娘さんの心拍音を録音し、BGMで流していたのではなかったか。非常に鮮烈な印象だった。

その作風から、フィクション・ドキュメンタリーの境界を越えた独特のスタイル、と紹介されることが多いが、半分あたっていて、半分は的外れではあるまいか。「彼方此方」という、ねっとりとからみつく母と娘の濃厚な女の物語もある。実験映画だけではなくて、こういった人間の性という、抗い難いどうしようもないものも撮られるのかと思い、その領域の広さと深さに唖然とした。 

最近は、若松孝二監督作品(『17歳の風景』『実録・連合赤軍』)や河瀬直美監督作品(『垂乳女Tarachime』『殯の森』)などにも参加し、活動の領域を広げているが、やはり本領は自身の撮られる作品であろう。

「半身反義」から二年。待望の新作は、あがた森魚さんの日本全国67箇所ツアーという膨大な旅の軌跡をまとめたドキュメンタリー。

 

シアターN渋谷で11月13日まで絶賛上映中。

詳細は下記。

 http://www.yayadeluxe.com/index.html

見に行かなくては。改め、見に行きませんか?

 

祭旅を誘い、渋谷に映画『あがた森魚ややデラックス』を観にいく。

(「はちみつ・ぱい」に対して)「俺はミュージシャンじゃないから、バンドマンの気持ちはわからないんだ」という言葉が印象的だった。 

うまい映画でも、よくできた映画でもないけれど、不思議と記憶に残る映画だった。テロップもなければ、歌の説明もなく、あがた森魚がどういう人で、どういう歌をうたっていたのか、知っている人も知らない人も、この映画をみれば、少なくともあがた森魚と一緒にいる時間を過ごすことができるのではないか。もちろん構成はされているのだろうけれど、化粧をしていない言葉のそのままの意味でのドキュメンタリー映画であった。

とても贅沢な時間である。

最終日の水曜は、あがた森魚のミニ・ライブがある由。是非。

『半七捕物帳を歩く ぼくの東京遊覧』田村隆一著・朝日文庫

岡本綺堂の名作『半七捕物帳』の事件現場を中心に、田村隆一と写真家・高梨豊が、へべれけになりながら、現代の東京、戦前の東京、永井荷風が『日和下駄』に書きとめた震災前の東京、そして、旧幕の江戸という、同じ土地の異なる位相を縦横無尽に歩いて描いた、詩人・田村隆一の東京地図。

肝心の『半七捕物帳』の引用が冗長でつまらないことや、高梨豊が撮った写真が何故か掲載されていないという問題点はあるものの、

 

「一ツ木、六本木、溜池……赤坂という名前そのものが関東ローム層の名残をとどめている。

 関東ローム層の上には、ペーブメント、貧弱な並木、見せかけだけのアメリカ式高層ビル、その裏手は、八ツ手と三毛ネコだけが生きている路地。

 関東ローム層を、掘りに掘って、地下鉄が走っている。ビルといったら銀行と商社。」

 

と、赤坂界隈の地名が、現在のイメージとちがって、いかにわびしいものであるかの指摘は、言葉にいきた田村隆一ならでは。

田村隆一の文章としては、中の下だが、久々に東京を歩きたくなる。考えて見れば、『歩行』に「歩く」ページがないというのも寂しい。今月中にふらふらと東京を歩いて参ります。乞うご期待!

『高い城の男』フィリップ・K・ディック著・ハヤカワ文庫=○

フィリップ・K・ディックの最高傑作との呼び声高い一冊。
ディックは、大多数の作品が映画化されているSF作家の泰斗。ご存知、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は「ブレードランナー」に、『追憶売ります』は「トータル・リコール」、『少数報告』が「マイノリティ・リポート」、『ゴールデンマン』が「ネクスト」など挙げればきりがない。大多数の作品が映像化された理由は、プロットが極めて精緻であることと、そのスタイルが余人の追随を決して許さないことだと思う。
本書は、第二次世界大戦に、日本、独逸、伊太利亜の枢軸国側が勝利をおさめたという、逆転した世界を描いている。第二次世界大戦に勝ったにもかかわらず、日本人が独逸に卑屈という設定が、奇妙なリアリティを持っている。困ると、皆が易経をひもとき、卦を占うという設定には少し無理があると思うが、卦というあいまいなものの中からもう一つの世界を描き出す構成が見事。

 

『文楽でございます』武井加津子著・ゴマブックス

文楽の伴侶、武井加津子の聞き書き。行間が広すぎて、30分ももたない。

いささか平凡すぎる意見ですが、この手の本の面白いところは、武井加津子を通して、もうひとりの桂文楽を知ることができること。

大晦日は、室町の砂場に年越し蕎麦をたのみ、日本橋のうさぎやでは、有名などら焼きではなくて、茶通(さつう)や唐饅頭(とうまんじゅう)みたいな焼き菓子を好んで食べ、洋菓子は「ルコント」。完全にOL的な読み方ですが、お茶請けにはまず間違いない。これは。

「福利厚生なんて言葉は、噺家の辞書にはありません」みたいな、章末の文楽の一言コメントも愉しく、味わいのある東京散歩地図みたいな一冊。

本書の題は、おかみさんが電話にいつも、「文楽でございます」といって出ることに由来している。それだけでなく、自己紹介のときも、「文楽の家内でございます」とはいわず、「文楽でございます」と一貫している。

だって、それで「相手も全部わかりますしね」という、面倒くさがりかたが、可憐なり。

『壊れかた指南』筒井康隆著・文藝春秋

筒井康隆にしては珍しく文庫本化されていない一冊。

本書は短編集で、30作収録されている。この中の「耽読者の家」が圧倒的によい。

この短編は、家中が本に埋め尽くされていて立錐の余地なく、働くでも勉強するでもなく、ただ本を読んで、その面白さについて延々語っているだけなのですが、読む喜びというものを表現に昇華している。

本が好きな人は立ち読みでもかまわないので、是非ご一読をおすすめしたい。

ぶっとびますぜ。

ディケンズやウェブスター、ジャック・ロンドン、アルツイバーシェフなど、実際に筒井康隆が大好きな本について、楽しく語っているから、あたかも筒井康隆と話しこんでいるような気分になる。うらやましいというか、この家に行きたい。本気で。

『檻のなかのダンス』鶴見済著・太田出版

「アタマ」で考える良さと「カラダ」で感じる良さというのを視点をかえてみると、違うどころか対立している。たとえば、映画や芝居はたのしいが、その楽しさは、「アタマ」だけの楽しみにすぎず、「カラダ」にとっては坐っているだけの二時間の拷問に過ぎない。逆に、「カラダ」が楽しんでいるとき、つまり、セックス、寝る、踊る場合は、「アタマ」は完全に用なしで何もしていない。

こうした対立構造は実は、幼稚園から続いていて、一生を終えるまで意識されることがない。それが教育の「最大の仕掛け」であるという。

鶴見のいうように、「カラダ」が受けてきた教育を点検していくと、「学校の敷地から出られない→閉じ込め」「起立、礼、着席→時間と反復の叩き込み」「教室の視線(浮くとか浮かないとか)→監視」など、実際、彼が監獄で実体験してきたこと何等変わらない。

学校や会社における日常生活は、刑罰と似ている。それは、「生産」を史上命題とする産業革命以降の近代社会が、工員に課した教育を学校教育が継承しているからであり、「カラダ」の視点からみた刑罰は、学校教育の延長線上にある。そんな授業は受けたくないが。

『坂口安吾 百歳の異端児』出口裕弘著・新潮社

出口裕弘が書くように、「作家の最高の贅沢は卓越した作品を創ることだ。」

しかしながら、たとえば、坂口安吾以外の誰にも書けない作品をものして、それが誰の目にもとまらなかったら? その失意は想像を絶する。

昭和六年六月、二十五歳の安吾は「風博士」を発表し、牧野信一に激賞されて新進作家としてデビューする。順風満帆だったのは、この一時だけで、文名あがらぬままの空振りがつづき、矢田津世子との恋に破れ、起死回生のつもりで書き上げた長編『吹雪物語』も反響絶無。作家として半ば葬り去られた安吾は昭和十四年に「茶番に寄せて」という卓抜なエッセイを踏み切り板にして、前衛志向の「勉強記」「総理大臣が貰った手紙」を書き、ついで翌年、「盗まれた手紙の話」を発表した。命がけで書いた『吹雪物語』を自ら駄作として葬りさったあと、あえて新型ファルスに血道をそそぎ、失敗した。

文壇、世間を問わず、何人かの有力な具眼の士から、この作品群が高い評価を受けていたら、安吾の文学者としての生涯は別様のものになったのではないかと著者はいう。この人が、小説家として大成する道があったとすれば、それは新型ファルスを深化、拡大して行った場合だ、と。

昭和十五年六月、「盗まれた手紙の話」を発表したきり、ファルスの執筆を断念した安吾は、翌年ナンセンス譚の極北ショヴォーの『年を歴た鰐の話』(山本夏彦訳)を耽読するも、こうしたナンセンスの方向で、安吾の才能を全面開花させることもできなかった。

著者がいうように、「安吾とは、何をどう書けば自分の才能を百パーセント開花させることができるのか、その肝心かなめのところでいつも自分を見損なってしまった大器」ということになるのかもしれない。大きなことを書こうとして、失敗し、その失敗に終生気がつくことがなかった。

過激な誠実派、坂口安吾。

しかしながら、「不連続殺人事件」などの推理小説もいいが、自伝体的小説を含めた、「風と光と二十の私」など、理論を排した小説はいつ読んでもいい。やはり、私小説の強さ、というのは百千の理論にも勝るのだろうか。

『花嫁化鳥』寺山修司著・角川文庫

「私はただの現在に過ぎない」とか、「初恋宗教」とか、寺山修司の文章は、一行で、どきりとして眼が離せなくなるような言葉に満ち満ちている。
それだけでなくて、「馬が速いのは、馬を食う動物の速さが増大したことに対する反応だ」(ウェルズ)とか、ボルヘスの「午後五時に正面を向いていた犬と、午後五時五分過ぎに横を向いていた犬とは、もはや同じ犬ではない」と考えるフネスという男の話など、ボルヘスやウェルズを読むよりも鮮烈な印象をあたえる言葉を見つける、彼は天才だと思う。

『対論 四角いジャングル』寺山修司著・角川文庫

自刃直前の三島由紀夫、鶴見俊輔、野坂昭如、別役実、盟友・篠田正浩など豪華な対談陣の傍ら、なぜ、この人と? と首をかしげるような組み合わせの寺山修司の対談集。

特に、皇太子の教育係でもあった浜尾実との対談がひどい。寺山に残酷にも全否定されている。徹底的にやりこめないと気がすまないらしく、相手が「はあ」とか「そうですか」としかいっていないのに、嬉々として否定し続けている。

基本的には、若気の至りなのか、鶴見俊輔と篠田、野坂を除くと、対談として成立していない。別役実とはガチで喧嘩(論争)し、三島との対談もパラレルで交差するということがない。

あるいは、寺山修司という人の特徴なのかもしれないが、人の話を聞いて、それに答えるということが、およそできていない。

まさに一方通行路。

『当世凡人伝』富岡多恵子著・講談社

舞踊家・田中泯(みん)の父親は、警視庁の刑事で、小学校卒で警視まで昇進した。表彰状をいっぱいもらっていたけれど、賞状は額にいれず、丸めっぱなしで、晩年には庭で、それを火にくべた。趣味は、土いじりで、退職後は一畳ほどの自宅の庭で畑をつくって、両手で土をもみほぐしていた。田中泯は、その横顔をよく覚えているという。「この人は、こういうことが好きなんだなあ」と思ったという。

本書は、田中泯の父親のような、ひと昔前の、12人の平凡な人間を描いた短編集である。小学校卒で、官費の警察学校から警視になった、百姓の六男、六平を主人公にした「薬の引き出し」。

昔は寄席にでた噺家・菊蔵の最後の一席を描いた「立切れ」。 

小説というものが面白いのは、なんの変哲もない人間の日常を描いて、無類に面白く読ませるところである。

川村二郎が本書の解説にもかいていることだが、だいたい、平凡な人間を描くときの作家の心の傾向として、「名もなく貧しいなみの人間こそが本当の人間だ、下ではなくむしろ上の人間なのだ、という主張があらわになりがちなことは否定しがたい」。そうした試みを否定するつもりはないが、どこかしら、息苦しさというのか、料簡のせまさみたいなものはあるように思う。

こうした庶民の文学とは、まったくかかわりなく、徹底して庶民を描いて、書き尽くした作に、深沢七郎の『庶民列伝』がある。この小説が圧倒的に面白いのは、主題の選択ではなく、深沢七郎の視線である。

関係のないことを書き連ねて、何が言いたいのかといえば、平凡を描いて非凡というのは、つまりは作家の力なのだというごくごく平凡なことである。

文章が熾火(おきび)のように燃えている。

『自殺自由法』戸梶圭太著・中公文庫

「日本国民は満十五歳以上になれば何人も自由意志によって、国が定めたところの施設に於いて適切な方法により自殺することを許される。但し、服役者、裁判継続中の者、判断能力のない者は除外される。」

 

本書は小説である。

当然、フィクションなのだが、毎年3万人の自殺者をもつ日本において、このフィクションの法律はすでに存在している。

いまだ読み終えることのできない島田雅彦の『自由死刑』もおそらくは根は同じなのだろう。

作品それ自体の出来としては、延々とつづく絵のない漫画のような筆力としか言い得ない。しかしながら、この非凡な発想が、最後まで読ませる魅力を作品に与えている。

映画『Bukowski Old Punk』ジョン・ダラガン監督

ジョン・マーティンという初版本の収集家がいて、彼は、本を集めることだけでなく、読むことができた。その作家がどれぐらいの力量があるかどうかの目利きをすることが。

あるとき彼は、一冊の薄汚れた、どこにでも転がっている安っぽい尻を拭くようなパルピマガジンに目をとめた。いつものようにざっと目を通すつもりが、つい読まされた。ひとつのコラムに目を奪われたのだ。作家の名前は、チャールズ・ブコウスキー。

チャールズ・ブコウスキーは、日本では、どうしようもないチナスキーものの自伝小説家ふうに思われているが、実は違う。二十代のころは、短編小説を書いて書き捨てていたようだが、三十代、四十代の間に書きついできたのは、詩なのである。あんまり、このひとの作風と詩が結びつかなくて、実際にNYの古本屋で手にとるまでは、正直性質の悪いジョークだと思っていた。出版人の悪乗りのたぐいの。

このドキュメンタリーで、思わず胸があつくなったのが、ジョン・マーティンの言葉だった。マーティンはブコウスキーの家にやってきて、ふたりで一ヶ月いくらあればブコウスキーが生活できるかを計算するくだりである。ものの五分で慰謝料もあわせて計100ドルあれば足りることがわかる。するとマーティンは、

「あんたが作品を書いても、書かなくても、月100ドル支払おう。あんたが生きている限り。だから仕事をやめて、書いてくれないか」という。

これはもうプロポーズである。

マーティンは自慢の初版本のコレクションを大学図書館に5万ドルで売り払うと、職を辞して、ブコウスキーの本を出版するためにブラック・スパロウという出版社をたちあげた。つまり、マーティンはロサンザルスの朗読会でせいぜい二、三十人の観客を集めるのが関の山であったブコウスキーにかけたのだ。

これで、書かない奴は作家じゃない。のでしょう。きっと。

もともと誰が読もうが読むまいが雑誌に載ろうが載るまいが書き続けていた人である。書いて書いて書きまくった。マーティンから可能なら書いてくれないかと頼まれていた小説も。

この二時間近くあるドキュメンタリーで、目が釘付けになったのは、このたった五分間だった。多分、作家が作家であるには、たった一言で足りるのだろう。

ブコウスキーの詩に、こんな一行がある。

As the spirit wanes the form appers

→魂がにぶると形式が現れる(でいいのかしら?)

臆病者の魂の咆哮である。

映画『グローバル・メタル』サム・ダン、他監督

へヴィ・メタル馬鹿のサム・ダンが、文化人類学的観点から、ブラック・サバスやらディープ・パープルを出発点に、ブラジル、日本、イスラエル、ジャカルタ、インド、中国など世界に広がっていったヘヴィ・メタルを追いかけていくドキュメンタリー映画。

サム・ダンの知的なききぶりが爽快でよし。ヘヴィ・メタルが各国で受容されていく過程で、変容するのをつぶさに観察し、ヘヴィ・メタルを通して、人類を再定義するメタル馬鹿ぶりに嬉しくなる。

日本篇には、当然、元メガデスのマーティ・フリードマンが登場。ビジュアル系とヘヴィ・メタルの音が同じであることを指摘して、はっとさせられる。XのYOSHIKIがインタビューに答えていたのに、はじめ違和感があったのだけれど、外見ではなくて、この映画が、あくまで音楽の本質である音に忠実につくられていることに気付いて、襟をただす。最後のライブ映像が、インドでライブをするアイアン・メイデンというのも嬉しい。久々に、昔のアルバムを引っ張り出してきて爆音で聴く。