金子光晴

金子光晴の自伝『詩人』(講談社文芸文庫)を読む。
「家庭をつくり、門をとじ、私財をひろげて自他の境界をがっちりとさせてゆく、家というものに僕は、それほど執着をもっていない。(中略)所有は仮のもので、物は一人から他人の手に不断にうつりあるいて、止まるところを知らない。(中略)人間同士の愛着もそうだ。」
金子光晴の自伝とは、とどのつまりは放浪記である。しかも、かなりみっともない類の。
僕がはじめて詩を知ったのは、宮沢賢治でも、寺山修司でもなくて、金子光晴の無題の詩だった。たった四枚の言葉に、ぬきさしならぬものを感じて、詩集を、本を買い集めて読んだ。
自分に坐る席のない場所に坐らせられる居住まいの悪さというのを、はじめて視た。『詩人』には、伊藤整が描いた『日本文壇史』のような、群像劇はない。あるのは強烈な自我と、あきらめと、紙とペンの彷徨である。

『なにもかも小林秀雄に教わった』木田元著・文春新書

絶望とは何か、ずっと考えてきた。絶望は辞書がいう「希望を失うこと。全く期待できなくなること。」ではない。 ノートに「絶望」と書いたところで、それで絶望することにはならないし、絶望を絶望という言葉で表現することもできないが、絶望を感じている。では絶望とは何なのか?

 

「農業の勉強はしたくない、する気がない。と言いながら、それじゃあなにがしたいのだ、なにができるのだと訊かれても答えられない。なんでもできそうに気持ちが昂揚するかと思うと、次の瞬間には自分がこれまでなに一つまとまったことはしたことがないのに気づいて、ガクンと落ちこむ。毎日がその繰りかえしだった。」

 

こうした苦悩を絶望といわず、何という。

この文章は敗戦後まもなく、哲学者の木田元が、安否不明の父親にかわって、若くして一家の生計を養わなくてはならなくなって、闇商売で工面した金をつぎ込み、人生の中休みとして、漠然と農林専門学校に入ったころの回想である。

キルケゴールにいわせると、人間はみな絶望している。というより、絶望しうることは人間の特権なのである。たとえば「不安」ですら、キルケゴールによると、絶望者が自分の絶望を意識していない、零度の状態、ということになる。

絶望という状態を文学に定着させた作家にドストエフスキーがいる。『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタブローギン、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリ、『白痴』のラゴージンなど、彼の描く登場人物は、みな絶望している。つまり、すぐれた能力をもっているにもかかわらず、帝政末期のロシアでは、その力を発揮する場所が得られず、鬱屈した日々をおくり、その力は時として、あらぬ方向に噴出するのだ。ラスコーリニコフの斧や、12歳の少女を陵辱して自殺に追い込んだ世界文学史においても他に類をみない精神の極北をさまよった、永遠のアンチ・ヒーロー、ニコライ・スタブローギンがそれである。

木田は、自分の鬱屈した日々の絶望と重ねあわせるようにして、ドストエフスキーや、キルケゴールに耽溺し、沈潜した。この二人に、接点はないが、同時代を、世界の辺境で生きた。この絶望の文学を、木田元の目の前に、鮮やかに展開してみせたのが、誰であろう、小林秀雄である。

小林秀雄は批評を、一個の作品として昇華させた、いうなれば作家。たとえば、かの有名な「ランボオ論」の書き出しは、

 

「この孛星(はいせい)が、不可思議な人間厭嫌の光芒を放ってフランス文学の大空を掠めたのは、一八七〇年より七三年まで(中略)、自●らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに三年の期間である。」

 

であるし、モーツァルトの交響曲(第三九、四〇、四一)を聞けば、

 

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」

 

と謳う。

思春期に読む、小林秀雄は圧倒的である。木田元は、小林秀雄に導かれるまま、その後、三三年に渡って、取り組むことになるハイデガーの『存在と時間』に出会うことになる。 ハイデガーと小林秀雄はニーチェという水脈でつながっている。

ハイデガーは、 1927年に『存在と時間』を書いて、哲学界に不動の地歩をのこした。だが、何よりも前に、ハイデガーはナチスに加担した哲学者として名前を歴史に刻まれている。

ユダヤ系の恩師、フッサールが苦境に立たされていたのを坐視したり、あまつ、反ナチス的信条をもつ友人知人を密告したりと、性格がいいとはとてもじゃないが言えない。日本には言行一致の儒学の伝統みたいなものがあるので、偉大な思想家には、高潔な人柄が期待される。その点、ハイデガーは失格だ。しかし、講義録をあらためて読み、ハイデガーの著作の前に坐りなおした木田は、こういう。

 

「たしかに性格は悪い、だが、その思想はやはり凄い。それで悪いか、と。だいたい、いつもニコニコしていて周りの誰からも愛され尊敬されるような人間が、世界をひっくりかえすような思想を形成するなんて、そっちの方がありえない」

 

と。

ハイデガーはよく、「存在(ザイン)は存在者(ザイエンデス)ではない」という。これは、存在する、ということは、存在するものに帰属する性質ではなく、人間(現存在)が設定する視点のようなものだ、ということで、つまり、人間が「存在」という視点を設定することで、そこから見えるものが皆一様に「存在者」として見えてくる、ということ。

一般に動物は、多少の幅はあるにせよ、現在だけに生きている。が、人間のように、神経系の分化がすすみ、ある域をこえると、現在、という世界にズレが生じ、過去や未来と呼ばれる次元が開かれ、いわゆる時間化がはじまる。

これを、リルケは、『ドゥイノの悲歌』(第八の悲歌)で、「開かれた場(ダス・オッフェネ)」といった。ハイデガーはそこから始めて、

 

「動物は世界のうちにいます。だが、われわれは、われわれの意識の果たした稀有の転換と高まりによって、世界の前に立っているのです」

 

という。

動物や植物は、世界の内側にはめこまれて、「開かれた場」にはめこまれているが、人間のように意識の度が高まり、世界の前に立ってしまうと、世界から閉め出され、世界が不透明になってくる。つまり、おのれを見失う危険に、さらされている、というのである。

後期のハイデガーは、こうした「存在」という視点は、「言葉」の内部で生起する、と考える。言葉というのは、ものの名前ではなく、また人間が、観念や感情を表現するためにあるのでもない。ここでいう、言葉とは、人間が使う道具ではなく、「見られるもの、感じられるもの、物そのもの、存在そのもののうちで生起する分節の働き」なのだ。

ここまで精緻に、かつ平明な言葉で語られたハイデガーの思想を、僕は知らない。木田元には、他に、浩瀚なハイデガーの研究書が多々あり、そのいずれも面白い。おすすめです。

『必死のパッチ』桂雀々著・幻冬舎

以下、著者略歴より抜粋。

「桂雀々

 落語家

 1960年8月9日、大阪市住吉区に生まれる。

 11歳で母親が蒸発、その後、父親も家を出て行ったため、

 市営住宅に一人で暮らしながら、中学3年間を乗り切る」

本書は、桂雀々の自伝小説で、タイトルの「必死のパッチ」は大阪弁で、「必死のさらに上」を意味する言葉で、「必死」と「死に物狂い」を足して、「がむしゃら」をかけたようなもの、と著者はいう。

略歴が、この自伝小説の強烈さを充分に伝えているものの、その認識が不十分であったことは、読了するまではわからなかった。

帯に、『ホームレス中学生』の田村裕が「はっきり言ってホームレスの方が楽でした」というコメントを寄せているが、それはそのままの言葉の意味で、正しい。

家があることによってもたらされる恐怖は、サム・ライミや清水崇のようなホラー映画とは一線を画して、身近な恐怖として、目の前にせまってくる。

電気がとめられ、ガスがとめられ、蛇口をひねっても水はでない。

台所では、静かに食べ物が腐っていく。父親の借金を回収しに、巡回するヤクザをやりすごすために、蝋燭の明かりさえ、満足につけられない。

窓という窓は、ヤクザに割られ、足の踏み場もない。都会の夜とは思えない桎梏の暗闇。部屋のなかの物音は、大きなゴキブリが動く音であって、人ではない。

家族がいない、という重みを、この小説は明るく伝えているが、それが明るい話でないことは、おそらく誰の目にも明らかに違いない。

少年がまだ中学生であるという事実は、容易に自殺を想起させるファクターとして機能する。

桂雀々が桂雀々として、生きはじめてきっかけは、小さなラジオからこぼれる、落語という物語だった。それをひとり、暗闇にむかって、語りかける小学生というのは想像を絶している。

あんまり好きな言葉ではないけれど、立川談志が、あるとき、あなたにとって落語とはなにか、とたずねられていわく、「業の肯定」。

落語のすごいところは、文字通りどんな話でも落としてしまうところ(もっとも、落ちがないから落研(落語研究会の略)という妙なコピーで有名な落語集団もいたが……)。落語家の本領を如何なく発揮し、成熟した小説に仕上げている。

『呪われた町』スティーブン・キング著・集英社文庫 上・下

アメリカのメイン州に、セイラムズ・ロットという田舎町があった。メイン州はキングがよく舞台にする州で、セイラムズ・ロットはエルサレムをかけた架空の町。架空ではあるが、田舎町の常のように、

 

「小さな町はどこでもそうだが、スキャンダルは常にバーナーの上で煮えたぎっている。」

 

このバーナーの上に新進作家、ベン・ミアーズがやってきた。

町がしずかにさざめきはじめる。

ミアーズはこの田舎町で、四年間過ごしたことがあり、この町で起きた呪われた事件を題材に小説を書くつもりだったのだ。

この町の丘の上に、そびえたつ十字架のように坐った、マーステン館という豪邸があった。ヒューバート・マーステンは、運送会社の社長だったが、株の暴落で財産の大部分を失い、この家で世捨て人のように暮していた。あるとき、マーステンは妻を散弾銃で頭を穴だらけにして、自分は二階の寝室で首をつって死んでいた。田舎町のスキャンダルとしては、これですでに充分だったのだが、奇妙なことにマーステンは家中に罠をしかけていた。何物かの襲撃を怖れるかのように。

実際、ミアーズが調べてみると、マーステンは運送会社の社長などではなく、ギャングの殺し屋だった。彼が手にかけた数は、両手の指の数では聞かず、それを何度か数えなおさなければならなかった。

このマーステン館を中心にした、四つの行方不明の事件が起こっていた。ミアーズはそれを取材しようと、この廃墟と化したマーステン館に近づこうとするのだが、既にマーステン館には新しい持ち主がいた。

カート・バーローとストレイカーという二人組みで、二人は骨董家具店を開業した。骨董家具屋が開業してから、町中に不可解な死者があふれはじめる。夜中に蘇り、生きている人間を襲って生き血をすする、死者が。 

 

一言でいえば、吸血鬼もの、である。

ひとつの町がじわじわと吸血鬼にのっとられていく。町の住人は一人減り、二人減り、しばらくすると何人減ったのかわからなくなってしまう。窓はカーテンでしかと覆われており、日の光は届かない。町は静かに崩壊し、吸血鬼退治に乗り出したのは、たったの六人。

 

ぐっと息をとめて拳をにぎりしめ、太腿と腕と首の筋肉をできるだけ大きく盛り上げ、ロープのたるみをつくりだしてロープから抜け出した奇術師フウディニのトリックをつかって危機を脱出したモンスターマニアの十二歳の少年、マーク・ペトリー。

ミアーズの恋人で、画家の卵でもあるスーザン・ノートン。

『ドラキュラ』『ドラキュラの客』『ドラキュラを求めて』『金枝篇』『吸血鬼の博物誌』『ハンガリー民話集』『闇の怪物たち』『現実生活の怪物たち』『ペーター・キュルテン、デュッセルドルフの殺人鬼』『吸血鬼ヴァーニー、または血の饗宴』を枕頭にならべる、ヴァン・ヘルシング教授も真っ青な高校教師マット・バーク。

マット・バークの教え子で、かかりつけの医者ジミー・コディ。

「ラブクラフトは無神論者でした。エドガー・アラン・ポーは中途半端な空想家だったし、ホーソンは陳腐な信心家にすぎませんでした。」と言い切るアル中の神父・キャラハン。

そして、ベン・ミアーズ。

 

六人対数百人の吸血鬼。

この絶望的な状況を悲観せず、敢然と立ち向かっていくカタルシスがたまらない。手に汗にぎるをはるかに越えている。

「人生いたるところにメロドラマありですよ」

と皮肉に笑う神父のキャラハンなど、キャラクターが立っているだけでなく、登場人物の死に方が圧倒的にうまく、不気味なリアリティを支え、読み始めると止らない。

 

また、キングは登場人物をかりて、

 

「コールリッジの『クリスタベル』やブラム・ストーカーの不気味な物語は、空想を織りなす縦糸と横糸にすぎないと。もちろん怪物は現実に存在する。熱核兵器の引金に指をかけた七つの国の人間たち、ハイジャッカーたち、大量殺人者たち、子供を襲う性犯罪者たちといった連中がそれだ。だがこれは実在しない。人はそんなものが実在しないことを知っている。女の乳房にできた悪魔の印はただの痣にすぎないし、一度死んでから生き返り、経帷子を着て妻の住む家の戸口に立つ男は、ただの運動失調にすぎない。子供の寝室の片隅でおしゃべりをしたり悪ふざけしたりする幽霊は、実は毛布のひだがそう見えるにすぎない。」

 

というように一度は連綿と続く幻想文学を否定しているように見せて、うまくキングの世界に導入する。

本書は、フィニイの『盗まれた町』に隠れたオマージュを捧げている。

あわせて読んでみてください。

 

『悪夢の種子』スティーブン・キング・リブロポート=○

スティーブン・キングのインタビュー集。幼少時に蒸発してしまった父親や、一向に先の見えない生活を続けながらも書くことをやめなかったという成功談を、全部ギャグにしてしまうところが、希代のストリーテラーであるキングらしい。痛快。
孫引きで恐縮ですが、「この作品に関してアドヴァイスをふたつしておく。まず最初に、"この本を買うな"ということ。ふたつめは、"もし買っても、足の上には落とすな"ということだ」というジェームズ・ミッチェナーの小説の手厳しい書評を紹介してから、自作を語れるのは世界広しといえどもキングぐらいのもの。敬服いたしました。

 

『ニート フリーターでも失業者でもなく』玄田有史・他著・幻冬舎

厚生労働省の定義によれば、社会的ひきこもりとは、自宅にひきこもって学校や会社に行かず、家族以外と親密な対人関係がない状態が六ヶ月以上続いているひとたちのことをいう(ただし、うつなど精神障害の場合はその中には含まれない)。

ニートとは、「就職活動の前段階で立ち止まってしまった」人たちで、玄田さんによれば、この社会的ひきもりの中にすら認識されていない。この水面下で急増し、日本の労働市場の鳥瞰図に、巨大な塊として姿をあらわしつつあるニートとは何か? それを問うたのが本書。

ひとつの分水嶺として上げられているのが、14歳までの教育で、自分の存在意義に過大な不安を感じなくてすむような体験があったかどうか、ということ。その成功例として、兵庫と富山の教育行政の「トライやる・ウィーク」(職場体験学習)が紹介されている。

自分が何より切実だと思ったのは、ニートに取材したインタビューで、

「勘違いして欲しくないんです。きちんと働く気がないわけでもないし、世の中甘くみているわけでもないし、将来に対する不安がないわけでもないんです。でも、就職、就職って、そんなに焦っていたら、みつかるものもみつからないじゃないですか」とか、「いざとなったら働きます。そのときは仕事は選ばないですよ」とか、「お金はいらないんです。そんなに物欲がないんです。それよりも精神的に満たされたい」とか。『ゴトーを待ちながら』を想起させるような、留保と喜劇的な言葉。

この舞台が笑えないのは、留保をとかぬ限り終わることがないにもかかわらず、舞台に上がった以上、外部からの指示なく、その留保が終わることがないところである。僕は運良くニートから脱したが、それは自分の力ではなくて、心ある友人の痛切な一言があったからだ。「ニート」という言葉が一時的な現象として、専門用語の中に消えることを願ってやまない。

『抱擁家族』小島信夫著・講談社

妻が浮気をしていることを家政婦に密告されるところから、物語がゆっくりと動き出す。

「三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れている、と。

 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きな妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。」という書き出しが暗示しているように、統制を失った「家」を舞台に、壊れて静かに沈んでいく家庭を、小島信夫独特の距離感とユーモアで描いている。

やることなすことがうまくいかず、嫌な記憶のある古い家を脱して、新しくアメリカ式の家の建築をするという一大イベントに着手しはじめたとき、肝心の妻が乳癌を患って、不帰の人となる。

「長い間、妻の時子は対話の相手であった。対話が出来なくなったとなると、俊介は対話をしようとあせった。俊介は今、夫婦となってはじめて、時子と一番対話をしたいと思っている。それなのにその相手と永久にそうすることはできない。」

失ったものはもとには戻らない。だからといって、それをそのまま受け入れるだけなら、生きているとはいえない。この物語が本領を発揮するのは、まさにこの後である。デパートの店員をナンパしたり、看護婦を口説いたり、まわりを巻き込んで、縁談の斡旋を強要し、不興を買ったり、もがき、あがき、虚勢をはり、張りぼてのやさしさをふりまいて、自己の制御を失って、それでも生きている三輪俊介の姿を淡々と書き続けるその筆致は、見事というほかない。

『語るに足る、ささやかな人生』駒沢敏器著・小学館文庫

ジェームズ・ディーンが、ロルカの詩集に書きとめた走り書きに、

 

「ぼくの町は工業が育たない。

 ぼくの町は小さく、その閉鎖性を自ら愛している。

 ぼくの町は危険な偏狭さを目標にしている。

 ぼくの町は盲目的崇拝という点では偉大だ。

 ぼくの町は神とその使徒を信じている。

 ぼくの町はカトリックとユダヤ人を嫌う。

 ぼくの町は無邪気で自分勝手な泥棒だ。

 ぼくの町は仕事熱心で、新聞を読む。

 ぼくの町は優しく、ぼくは裸で生まれた。

 ぼくの町はぼくではない。ぼくはここにいる。」(『James Dean in his own words』Mick st Michael)

 

がある。

大好きな詩のひとつで、高校生のときに読んで、頭がスパークし、間違えて俳優になろうとした。人前でまともに話せない僕にとって、それは致命的な勘違いだったわけだけれど、人間は間違った方向に間違えないということを人生はいつも遠まわしに教えてくれる。

ジェームズ・ディーンは、インディアナの小さな町、フェアマウントに育った。つまり、スモール・タウンに、である。

スモール・タウンというのは、そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ごく小さな町のことである。そうした小ささを憎悪をして出て行く人もいれば、愛する人もいる。

人口は多くても一万人未満、町の大きさはメイン・ストリートを中心にせいぜい縦横に数ブロックある程度。車がなくても用は足りて、鍵をかける習慣もないぐらい、町の人はみんな友達である。つまり、 親密さと閉鎖性という言葉が表裏一体になった、狭い町だ。田舎育ちの僕にも、そうした気分はよくわかる。誰にでも挨拶はするし、される。名乗らなくても、どこそこの何々ちゃんね、ということを皆が知っている、人間と人間の距離が近い町。

駒沢敏器は、このスモール・タウンだけを経由して、全米を横断した。都会にはいっさい目もくれず。

それは、スモール・タウンが、「古き佳きアメリカ」を表象した「アメリカの素顔」であるからだ。

 

「アメリカのスモールタウンがいかにもアメリカ的である理由、アメリカの本質がそのままスモールタウンという場所に表れている理由は、皆が共同して「ここに住む意味」をつくりあげていくとき、そこに共通したアメリカ的価値が無意識に投影されるからだろう。町の歩道に倒れている人を助け起こそうとするときの咄嗟の良心も、皆がパンケーキを焼いて持ち寄ってくるときに抱いている共通の思いも、そこにはいささかの違いもない」

 

スモールタウンの住人、一人一人を前に、ノートを広げて、丁寧に言葉を拾っていく。

やや太り気味の作家志望の中学生のキャシーは、

 

「都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょ。刺激の量や種類が多いだけで、しかも偏りがあります。その刺激にただ身を任せるのなら都会の方がいいでしょうが、物を書く身としては、その逆の方がいいんです。静かで集中できるということではなく、このような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。情報に振り回されていない分だけ、この町の人の喋る言葉には、その人自身の人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みが乗っているんです。」

 

といって著者を驚かせれば、都会出身者で子育ての場所として、郊外ではなく、わざわざ都会から離れたスモールタウンを選んだラスティは、

 

「郊外というのは、都市生活を外部に広げただけのものなんだ。そういう意味では都会と変わらない。一見平和そうに見えて、住人は都会人だから同じ質の犯罪が発生するし、コミュニティにしたって、同じ通りに住む人たちの顔しか知らない。アパートのワンフロアがそのまま一戸建ての並ぶ路に移っただけさ」

 

と分析する。性の犯罪、暴力、ドラッグ問題、差別など、身近に見聞するメディアから発信される情報と隔絶された世界が、そこにはある。 とはいえ、当然、スモールタウンは「善人の集まり」のような場所ではない。不便さや寂しさに負けそうになる毎日を自分の努力で支えているに過ぎないのだ。

スモールタウンは、実際、アメリカの本流から外れている。それは幹線という意味からも、経済という意味からも、現代の大多数のアメリカ人の関心の外側にあるという意味からも、である。

建物は、古く寂れているし、時間は50年前から止まったまま動こうとしない。廃れた店には穴ができて、そのなかに影が入り込んでいく。町に一軒の映画館は、封鎖されたままだし、狭い町が嫌で家出をしようにも、隣町までのあまりの遠さにやる気がうせ、たどり着いたとしても、そこはやはり、同じように小さな町なのだ。 綺麗な家が多いけれど、そこももうじき影になる。

かつて、一日9000台の車の往来があり、ボビー・トゥループが歌い、スタインベックが「母なる道」とよんだ、アメリカのマザー・ロード、「ルート66」も例外ではない。

1977年、あっけなく、アリゾナの小さな町ごと、いともたやすくバイパスされて以来、アリゾナの広大な砂漠のなかに置き去りにされた。発展から取り残された町は小さく萎んでいく運命にある。

ただし、ネガティブな側面だけではない。

そこには、都会に住む多くのアメリカ人が失ってしまった伝統的な家庭料理や、テレビによって、失われた家族の時間など、その小ささゆえに、一人一人に明確な役割があり、町が住人を必要とし、住人が町を必要とする、幸福な関係が結ばれている。キャシーのようなおしゃまな中学生だけでなく、夜遊びというと、スパゲティソースで大人の車にいたずら描きをしたり、トイレットペーパーで誰かの家をぐるぐる巻きにしたり、と、

 

「家に帰ってベッドにもぐりこんでから、自分のいたずらを思い出して、枕に顔をうずめて笑いをこらえるのが最高!」

 

みたいな少女たちがいる。 町一番の喫茶店に入ると、  

 

「ちょっとだけ使ったナプキンと新しいナプキンがありますが、どちらがいいですか」

 

などと、まことしやかにジョークをとばしてくるマスターがいる。 かつては栄華をほこった幽霊屋敷みたいなホテルの盲目のおばあさんは、

 

「死ににくる人には特徴があるのよ」

 

といって、退屈な夜をどきどきさせるような魅力的な夜にかえてくれる。スピード違反で捕まったはずなのに、気がつくと、お前はラッキーな奴だとばかりに肩をたたかれて、本物のロデオはみたくないか? とマップを取り出して、次の町を教えてくれる。

Everybody knows everybody

都会では味わうことのできないような、スモールタウンならではの事件と出会いを楽しむことのできる、レイモンド・カーヴァーみたいな、静かな音楽のように奏でられた旅の記録。