【M-1グランプリ(えむわんぐらんぷり)】
M-1グランプリという漫才の大会があったことを
この文章を読んでいる人はもちろん知っている。
けど、もしもだ。
もしもこの駄文が時を越え50年後のあなたが手にしているのならば、
あなたは「アイドントノー」と答えるかもしれない。
この文章は2060年を生きるあなたに向けて書いているつもりで書き始めるが、途中で、その「つもり」がどうでもよくなる可能性が大いにある。
どうか勘弁と容赦を。
こんなことを考えたことがある。
できるだけ道具も使わず、
できるだけ場所も選ばず、
できるだけ客も選ばないのに、
べらぼうに人を楽しませる。
そんな表現方法ってあるだろうか。
己が主戦場にしている演劇は全てが真逆だ。
全てにそむいたら大いに不利な状況に追い込まれる。
音楽ならどうか。アカペラ以外なら楽器が必要になるし、
人を楽しませることを考えれば、何から何まで色々と必要だ。
どう考えてもそんな都合の良い表現方法はないようが気がするが、
一つだけある。
それが「漫才」だった。
ということを証明したのが「M-1グランプリ」だった。
出囃子が鳴り、
中央に置かれた一本のスタンドマイクに、
芸人が歩み寄ってくる。
彼らは何も持っておらず丸腰だ。
およそ4分間。
人と人が向かい合い掛け合うだけのシンプルな表現方法。
あなたに友人が1人でもいれば漫才はできる。
友人がいなければ母親でも父親でもいい。
「一緒にやる人がいないから」という牌は通らない。
また、漫才をやるのにお金は一切掛らない。
「服が一着もないから」と言うのなら、
僕が1000円あげるからユニクロへ行きなさい。
要するに、誰にでもできると言いたかった。
だから難しい。
だから奥が深い。
だからオモシロい。
2000年から2010年までの10年間、
そんな「漫才」で一番面白いコンビを決める
M-1グランプリという大会があった。
<2010年12月26日 23時44分 自宅>
【おっぱい(おっぱい)】
おっぱいのことを人生で嫌いになったことは一度もない。
これがイエスでなければ人間をやっている意味は1ミリもない。
だとすれば、どんなサイズが、どんなカタチが、という話になってくる。
おっぱいの種類である。
この正解を端的に導けるほど僕はまだ成熟してない。
おっぱいの正解を決め切れずにいる。
決め切れないまま二十代最後をジタバタと生きている。
二十歳の頃、何かにとり付かれたように検索エンジンに打ち込んだ「巨乳」という言葉のことは忘れていない。けれど、AVを借りる際に「巨乳」というキーワードが引き金になることはなくなった。今の僕は、おっぱいの向こう側にあるもっと大切な何かを見つめようとしている。それが何なのかは分らない。巨乳至上主義でもなければ貧乳至上主義でもないことは確かだ。
さっき京王線に乗っていたら、友人同士だと思われる男子学生と女子大生がベシャっていた。女子大生が「友人のKちゃんがカレと別れたから紹介しよっか?」と男子学生に薦めた。それを聞いた男子学生の第一声は「へぇー」でも「マジで?!」でもなければ「どんな子なの?」でもなかった。
「何カップ?」
おっぱいのサイズを尋ねていた。
獲物に対するなんという直線距離の短さだ。
僕はその学生のハイパー即物的な感性に惚れ惚れした。
地球が滅びる間際に子孫を残せるのはこうゆうメンズだろうな。
<2010年5月23日 16時27分 桜上水のファミレス >
【犬(いぬ)】
今、足元に犬が丸まって眠っている。黒マメシバを飼い始めてこの夏で2年が経つ。ジョンという名前だ。保育園の頃から飼い始めたクロスというダックスフンドは小学1年生の時に血のオシッコが出る病気で死んでしまった。その直後から飼い始めた銀という柴犬は4年前に息を引き取った。その時、実家の母が泣きながら電話を掛けて来たことが今も頭にこびり付いている。考えたくないが、命あるモノは必ずいつかその命の終着駅がある。命の電車がゆっくりと最後の駅に到着する。それは本当にゆっくりと減速をして停止線の所でちょうど止まる。車内の明かりが丁寧に消え、駅構内に優しい声で「おつかれさまでした」というアナウンスが鳴る。
<2010年4月14日 9時43分 自宅>